【 読書 ・ 100分de名著 】モンターグはミルドレッドに、自分たちが最初に出会ったのはいつ、どこだったかと聞いてみます。「わからないわ」とミルドレッド。モンターグ自身も忘れています。モンターグは、「からだが冷えるのを感じ」ます。
第2回 7日放送/ 9日再放送
タイトル: 本の中には何がある?
放映は、 月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、 水曜日 午前 05:30~05:55
及び 午後 00:00~00:25
【テキストの項目】
(1)
プラトンの「洞窟の比喩」
(2)
クラリスのレッスン②--洞窟の外はどんな味?
(3)
クラリスのレッスン③--社会のあるべき姿とは
(4)
二人目の教師--おばあさん
(5)
バラバラな体、バラバラな自分
(6)
答えは本の中にある?
(7)
記憶と文脈の欠落
(8)
消費者という機械になりはてた身体
【展開】
(1)
プラトンの「洞窟の比喩」
(2)
クラリスのレッスン②--洞窟の外はどんな味?
(3)
クラリスのレッスン③--社会のあるべき姿とは
(4)
二人目の教師--おばあさん
以上は、既に書きました。
(5)
バラバラな体、バラバラな自分
ファイアマンたちが屋根裏からどんどん本を投げ落とすとき、下にいたモンターグはそのうちの一冊を盗むのです。その描写に注意しましょう。まず、「モンターグはなにをしたのでもなかった〔Montag had done nothing〕」と始まります。これは、「モンターグがやったのではなかつた」という意味に取るとよいと思います。では誰が本を盗んだのか。答えは、モンターグではなく「彼の手」です。
一つの人格としてまとまりをもったモンターグが何かをするのではなく、手や足が、勝手に何かをしてしまう。離人症のような行動です。
(6)
答えは本の中にある?
モンターグは、本とともに焼け死ぬ人がいるという信じがたい事実に直面しました。なぜ一緒に燃えてしまうほど本が好きなのか。本にはいったい何があるのか。モンターグはそれを知りたくなります。そのきっかけとなったのがこのおばあさんでした。人を探求に促すことは、教師の大切な役割です。クラリスは、自らの人生を反省的にとらえること、自分は本当に幸せかと問うことをモンターグに教えました。おばあさんは、その問いの答えが本の中にあるかもしれない、と身をもって教えてくれたわけです。
二人の教師は、語ることではなく示すことによってモンターグを目覚めさせている、この点が共通しています。
(7)
記憶と文脈の欠落
本が禁じられると、その歴史の部分が痩せ細ってしまいます。たとえば、「夜明け」と「あけぼの」は意味としては同じですが、それぞれの言葉がまとうニュアンスが違います。「あけぼの」といえば私たちの多くは「春はあけぼの」を思い起こします。つまり、「あけぼの」という言葉の背後には清少納言が平安時代に「春はあけぼの」と『枕草子』に書きつけたという歴史があり、私たちはその歴史を共有している。だからこそ、夜明けを表現するときにあえて「あけぼの」を選んで使えば、私たちは他者と歴史を踏まえた深いコミュニケーションができるのです。もし『枕草子』を読むことが全面的に禁じられたら、「あけぼの?
何言ってんの? 夜明けでいいじゃん。同義語じゃん」となるでしょう。
(8)
消費者という機械になりはてた身体
第二部でミルドレッドが家を出てゆく場面では、彼女は口紅をしていません。それを見てモンターグは「紅をひいていないので口がない」と思います。ミルドレッドの口はもはや口紅という商品に取って代わられていたのです。つまり、彼女の身体は、パーツごとに商品=人工物のハイブリッドになっている。モンターグはもう、生きた全体としてのミルドレッドを思い浮かべることができません。彼女は消費者です。ものを買うのが生きがい。と同時に彼女も消費社会に消費され、消耗している(消費も消耗も英語ではconsume)のです。
モンターグもミルドレッドも、この社会に生きている人たちはみな、《探す・見つける。買う》を自動的に行うようにプログラムされた、「消費者という名の機械」になってしまっているのです。それしか知らずに一生を終えるなんてまったくひどい話だ。
<出典>
戸田山和久(2021/6)、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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