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2016年10月31日月曜日

(678) 死刑囚の恐怖


 死刑囚の朝は、怖いらしい。

 
死刑執行を言い渡されるのは朝である。
朝、コツコツと靴音が近づくのが怖い。
今日の死刑執行を言い渡されなければ、明日の朝までは生きておられる。
これが毎朝、繰り返される。

 
経験はないが、その恐怖は想像できる。
実感としては、何十分の一か、何百分の一か…

 
 
死刑囚と、そうでない私たちと、本質は同じである。

  いつか死ぬのは同じである

  明日死ぬ確率がゼロでないのも同じである

 
確率の大きさは違うが、
我々も明日、交通事故で死ぬ可能性も十分ある。
心臓麻痺で死ぬかもしれないし、殺人やテロにまきこまれるかもしれない。

 
死刑囚と、本質的に変わらない。

 

(673)で死を5つに分けて考えた。
(1)老衰による死」
(2)病により早められた死(例えば、癌で余命を宣告された)」
(3)事故や脳溢血等によるによる突然の死」
(4)事故や脳溢血等による、植物状態を経由しての死」
(5)認知症を経由しての死」


このうち、(1)(2)(5)は、実際に死んだり判断力を失ったりするまでに、長短はあれ、死の準備をする時間は、残されている。

しかし、(3)(4)は、考えるも間もなく、死んだり意思表明できなくなったりしまう。

 
いつ死が訪れるかわからないのは死刑囚と同じだが、我々は監獄に閉じ込められることなく、自由に動ける。死を意識すれば、死の準備をすることができる。一日一日をかけがえのない時間として過ごすことができる。

 
「死を忘れるな」「メメント・モリ(memento mori)」

 
しかし、多くの人は、死刑囚のように、死を思い浮かべられず、
死を意識せず、死とは関係のないところで生きている。

 

一方、(1)(2)(5)に対しては、大きく分けると、二つのポイントを示した
「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」ために、
  今を生きる(過去や未来に生きない)
  「私だけ」ではない状態になる

この二つは、普通の生を充実するためにも、役立つ。

 

死を考えることは、生を考えることでもある。

私は、生を充実させたく、死を考えている。

 

このシリーズ 終わり

2016年10月30日日曜日

(677)  日々是好日


先に(675)

「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」ために、次の三つが大切だと思う。即ち、

(1)   過去を考えない
(2)   未来を考えない
(3)   今できることを考える

と述べた後、

 「なお、過去の楽しかったことを思い出したり、お世話になったことを思い出して感謝したりすることは、… 安らかな死を迎える力を与えてくれるだろう」と書いた。

 

 今朝、テレビを見ていたら、まさにその例が出ていたので紹介する。

 
こころの時代~宗教・人生~ アンコール
「日々是好日-生かされて生きる-
【出演】正眼寺住職・正眼僧堂師家…山川宗玄,【きき手】金光寿郎
 
【初回放送去年712日】 → 今回放送 1030
 → 再放送予定 115()  NHKEテレ1 午後100分~ 午後200 

 

===== 概要 はじめ

 夜の8時に突然の来客があった。切羽詰まっているようなので話を聞いた。

 奥さんが末期がんで余命は一週間。モルヒネも効かない痛みで、苦しみの中でのたうちまわっている。優しい母・良き妻だったのに、今は汚い言葉を発して、見るに堪えない。本人の気を静めるためにひと言、書いてほしい、とのこと。

 奥さんは以前に手伝いに来てもらった門前の方で、一筆書いてほしいと言われながらも書いていなかったので、引き受けた。


 しかし、明日をも知れぬ命、何と書けばよいのか。…
硯に向かって思いついた言葉が「日々是好日」だった。

「好日という言葉の意味は、単純に『好い日』です。今、一番苦しい時でしょうけれど、この字を見ながら、人生で『あんなに素晴らしい日』はなかったか、『こういう家族が得られて、こんな楽しいこと』はなかったか、そういう日がいくつかあるはずだから、それを思い出しながら、じっと考えてみてもらえませんか」と伝えてほしてと言って、わたした。

 
 1週間か10日後に「残念ながら…」と連絡があるかと思っていたが無く、二か月半後、海外から帰国した日に「10日前に家内は死んだ。お礼にうかがいたい」と連絡があった。来ていただき、様子を聞いた。

 
 書いてもらった日に、すぐ説明してわたした。その時は気分が良く、「よくわかった」と受け取り、じっと見ていた。寝たり起きたりだが、その後も起きている時には、じっと見ていた。

 余命宣告された一週間がたって、医者の見立ては変わらなかった。

 10日たつと、水を飲みたいと言った。食道がんで飲めなかったので医者に相談したら「本人が飲みたいというなら飲ませなさい」と言われた。水を飲んだ

 何日かたって、ジュースを飲みたいと言って、飲んだ

 一週間たって、果物を食べたいと言って、食べた

 一ヶ月たって、食事をしたいとい行って、食べた

 家族としては希望が出てきたが、医者に診てもらうと進行が進んでいるとのこと

 
 二か月たって、奥さんはアルバムから自分の遺影を指定し、アクセサリーや着物を誰にあげたいかを言い、「死んだときにこの服を着せてね、化粧してね」と娘に頼んだ。

 その翌朝、御主人と二人になり、「私は、もう死ぬことは怖くない。でも、あなた一人を残して逝くのはつらい。ありがとう」と言って、すっと息を引き取った。

===== 概要 おわり

(676) 「私には大切なもの人(もの)がある」


 
 東日本大震災に関連して、色々な話をきいた。なかでも印象に残っている話を紹介する。

 
 迫りくる津波から家族が逃れようとして車に乗った。孫が取り残されているのに気付いたおばあさんは、引き返して孫を車に放り込んで「行って」と叫んだ。お父さんは間に合わないと判断し、急発進させた。家族が振り向くと、おばあさんは嬉しそうにバンザイしながら、津波にさらわれていった。
 

 悲しい話だが、それでもおばあさんは、幸せだっただろうなと思う。
 
 これは極端な例で、日常茶飯事ではない。

 

 「私ほど大切なものはない」のであれば、死は絶望に他ならない。

 人を愛している、愛している人がいる、と状況が一変する。

 
 人だけではない。
 宗教、信条、同胞、祖国、様々なものが死を乗り越えさせてくれる。


 あるいは、美しい自然、人類の歴史、そういうものと一体になった時、そういうものに包み抱かれていると感じた時、大好きな音楽に包まれている時、似たことが起こるのではないか。

 
 「私だけ」ではない状態、その状態で死を迎えることもまた、「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」につながると思う。

2016年10月28日金曜日

(675) 今を生きる(過去や未来に生きない)


「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」ために、
次の三つが大切だと思う。
 
即ち、

(1)   過去を考えない

(2)   未来を考えない

(3)   今できることを考える

…    ところまで、前回述べた。

  

私が心がけたいのは、次のことである。

(1)   過去を考えない

受け容れる(変えることのできない過去や運命を受け容れる)

(2)   未来を考えない

    委ねる(他人や成り行きにまかせる)

(3)   今できることを考える

    誠実に行動する(元気な時:後悔しないよう、今を精一杯生きる)

    祈る(何もできなくなった時:意識さえあれば、できる)

 

 過去を反省し今後に生かすことも、未来を想定し計画を立てることも、もはや残された時間が少ないので、あまり意味がない。今までの人生を振り返って後悔の念で押しつぶされそうになったり、自分の死後のことを心配して不安にかられたりするなど、情緒的なトラブルをかかえると、生に執着がわき、穏やかに死んで行きにくくなる。

 
 もしもここで「受け容れる(変えることのできない過去や運命を受け容れる)」「委ねる(他人や成り行きにまかせる)」というように切り替えられたら、後悔や不安は、ずいぶん緩和されるだろう。

 
 なお、過去の楽しかったことを思い出したり、お世話になったことを思い出して感謝したりすること、未来に向けて家族に伝えたいことを伝えておくことは、安らかな死を迎える力を与えてくれるだろう。杓子定規に「過去を考えるな」「未来を考えるな」と言っているのではない。

 

 人間は、暇になったらろくなことはない。今することがない、考えることがないと、思いは過去や未来に向かってしまう。

また、人間は「自分は何かの役に立っているか」などとついつい考えてしまうものであり、だんだん体が不自由になってくると「役に立たない自分は生きていても意味がない」などと思ってしまう。

 

 だから、今できることを考えるのは、とても大切なことである。しかし、ベッドに横たわって、自分の手足すらまともに動かせなくなって、いったい何ができるというのか。

 
すべての運動能力が失われても、意識さえあればできることがある。それが祈りである。「どうぞ、元のような元気な体に戻してください」と自分のための祈りではなく、残された家族、子や孫、若い人たちの幸せを願っての祈りである。

 
祈りについては、「(665) 祈らずにはおられない」「(666) 2種類の祈り」「(667) 言葉と思考」で述べた。役立つのは、「邪な祈り」ではなく、「本物の祈り」である。

 

 「受け容れる」「委ねる」「祈る」には、共通点がある。

受け入れられないのは、自分がなんとかしようとしているからである。委ねられないのは、自分がなんとかしないとうまくいかないと思っているからである。邪な祈りをしてしまうのは、自分の利益を願うからである。

 
 自分をどう位置づけるか、自分とどう向き合うかで、「受け容れる」「委ねる」「祈る」ができたり、できなかったりする。

2016年10月27日木曜日

(674)  「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」ために


私にとっては「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」が「尊厳ある死」であるといった(670)(673)。そのためにどうすればよいか。

 
前回と同様に、5つに分けて考える。「(1)老衰による死」「(2)病により早められた死(例えば、癌で余命を宣告された)」「(3)事故や脳溢血等によるによる突然の死」「(4)事故や脳溢血等による、植物状態を経由しての死」「(5)認知症を経由しての死」

 
(3)事故や脳溢血等によるによる突然の死」「(4)事故や脳溢血等による、植物状態を経由しての死」のケースでは、生へ執着することなく終わってしまう。考える余地はない。

 
考えるべきは、「(1)老衰による死」「(2)病により早められた死(例えば、癌で余命を宣告された)」「(5)認知症を経由しての死」のケースである。

 
共通するのは、死が間近に近づいていることである((5)は、認知症が間近に近づいている)。その状況において、「死が来る前に、生への執着がなくなる」が課題になる。

 
 
そのためには、次の三つが大切だと思う

(1)   過去を考えない

(2)   未来を考えない

(3)   今できることを考える

 

では、どのようにすれば、上記三つができるのか。

 次回に続く

2016年10月26日水曜日

(673) リビング・ウイル(LW)表明のタイミング


「尊厳死」は必ずしも、「尊厳ある死」ではない、と言った(672)

 
私にとっては「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」が「尊厳ある死」である(670)。いかに死ぬかが問題ではなく、最後をいかに生きるかが問題である。

そうであるならば、どのように「死が訪れる」かによって、「尊厳ある死」は影響を受ける。

 
5つに分けて考える。「(1)老衰による死」「(2)病により早められた死(例えば、癌で余命を宣告された)」「(3)事故や脳溢血等によるによる突然の死」「(4)事故や脳溢血等による、植物状態を経由しての死」「(5)認知症を経由しての死」

 
 
延命措置について先に検討する。

(1)老衰による死」… 少しずつ弱って行くので、弱ってきてから、家族などと話し合いながら、延命措置について方針を決め、伝えておく。リビング・ウイル(LW)を書面で表明しておけば、紛れがない

(2)病により早められた死(例えば、癌で余命を宣告された)」… 期間は限定されているが、家族などと話し合いながら、延命措置について方針を決め、伝えておく。リビング・ウイル(LW)を書面で表明しておけば、紛れがない

(3)事故や脳溢血等によるによる突然の死」… 延命措置の余地がない

(4)事故や脳溢血等による、植物状態を経由しての死」… 「不治で末期に至った」と医者が言っても、家族などがそれを受け容れられるとは限らない。判断は、家族にゆだねるしかないのではないか。

(5)認知症を経由しての死」… 通常は、ゆっくり進行する。軽度認知障害(MCI)の段階で自覚して、本格的になる前に(判断力があるうちに)家族などと話し合いながら、延命措置について方針を決め、伝えておく。リビング・ウイル(LW)を書面で表明しておけば、紛れがない
軽度認知障害(MCI):https://info.ninchisho.net/mci/k40

 

焦ってリビング・ウイル(LW)を書面で表明しない方が良いだろう、というのが私の意見である。死を意識しない段階で、リビング・ウイル(LW)を正しく決められないと思うからである。間近な死を意識してからで遅くない。ただし、「(4)事故等による、植物状態を経由しての死」については、日ごろから話し合っておくとよいと思う。

2016年10月25日火曜日

(672) 「尊厳死」を紐解く


  前々回(670)からの続き

 
 既に書いてきたことの繰り返しになると思うが、
あらためて整理した。

 
 一般財団法人 日本尊厳死協会のホームページによれば、

「尊厳死とは、不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことです。本人意思は健全な判断のもとでなされることが大切で、尊厳死は自己決定により受け入れた自然死と同じ意味と考えています。」


 

先ず、これは正しいかと言うと、正しい。

 日本尊厳死協会が「わたしたちは『尊厳死』をこのように定義します」と言っている。それは日本尊厳死協会が自由に決めてよいことであって、何人もそれを「正しくない」とは言えない

 
次に、これは適切かと言うと、私から見ると、適切な部分と、適切さを疑問視する部分とがある。

 「尊厳死」という言葉を情緒的に使うのではなく、しっかりと定義することにより、考えたり議論したりするときの基盤を整備したことは、適切だと思う。

 一方、「尊厳死」という名付け方は疑問視している。また、手続きによる定義形式も、疑問視している。

 

さて、

日本尊厳死協会の定義だが正しいとすると、
「延命措置を受け容れると、尊厳死できない」
というのも、正しくなる。

そう言われると、延命措置してはいけないように
思ってしまいそうだ。
そこに問題かあると思う。

 
日本尊厳死協会の定義した「尊厳死」と
「尊厳ある死」とは別物だ
ということを、しつこく言ってきた。

 
「尊厳死」を選ぶことによって、「尊厳ある死」を実現できることがあることも確かだけれど、

「尊厳死」を選ぶことにより、「尊厳ある死」を実現できないこともあるし、

「尊厳死」を選ばないことにより、「尊厳ある死」を実現できることもある。

 
我々にとって大切なのは「尊厳ある死」であって「尊厳死」ではない。

 

それは、
 
「尊厳ある死」は、その人の心の問題なのに、
「延命措置」という手続により「尊厳死」を定義したから誤解しやすくなった

ということだと思う。