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2016年8月18日木曜日

(603) 障害者への差別を減らす


最近「防災」ではなく「減災」という言葉を使うようになった。

「減災(げんさい)とは、災害時において発生し得る被害を最小化するための取り組みである。防災が被害を出さないことを目指す総合的な取り組みであるのに対して、減災とはあらかじめ被害の発生を想定した上で、その被害を低減させていこうとするものである」(wikipedia

 
「障害者への差別を無くす」が理想だが、人間の業みたいなものがあるので、「障害者への差別を減らす」が現実だろう。

 
 「障害者への差別を減らす教育」も必要であり、効果はあるが、それだけでは不十分だ。
 「差別はいけない」と教え諭して根本的に変わるものではないし、非難して根本的に変わるものでもない。

 
 また、「障害者への差別を減らす」と何回唱えても、それだけでは減らない。具体的に方向を定めて進める必要がある。3点述べる。

(1)          「自分より下の人がいないと我慢できない人(特に健常者)」を作らない

(2)          障害者と接する機会を増やす

(3)          障害者と接する準備をする

 
<各論>

(1)    「自分より下の人がいないと我慢できない人(特に健常者)」を作らない

 人は自分が最低だと思うことに耐えられないようにできていて、誰かを引きずり落としてでも、自分が上になろうとする。その時にターゲットになりやすいのが障害者である。真偽のほどは分からないが、「障害者は他の障害者に差別の気持ちをもちやすい」と聞いたことがある。

 「自分より下の人がいないと我慢できない人(健常者も障害者も)」に対して、「我慢しなさい」と言っても無理だろう。そうではなく、全ての人(障碍者も健常者も)ひとりひとりが大切にされ、本人がそれを受け止めれば、他人を引きずり落とす必要はなくなるし、強いて我慢しなくてよくなる。そうなれば、慈愛をもって自然に障害者と接することができるようになり、差別の気持ちが起こりにくくなる。

 
(2)    障害者と接する機会を増やす

 頭の中で「障害者は、…」と考えている人が、実際に障害者と接した時にどう反応するか。多くの人は「言動不一致」になるだろう。障害者に接した時に、本能的に出てしまう反応がある。それを現実世界で乗り越えていない人の「障害者」という言葉は、概念でしかない。

 
(3)          障害者と接する準備をする

 「障害者に接した時に、本能的に出てしまう反応がある」と書いたが、個人差が大きい。何の抵抗もなく慈愛に満ちた反応のできる人もあれば、どうしても否定的な感情が起こり、乗り越えられない人もいる。多くの人は、戸惑いながらも乗り越えていくだろう。

「障害者への差別を減らす教育も必要であり、効果はあるが、それだけでは不十分だ」と書いた。不十分だが、効果はある。

 
 障害者の姿や、考えや、感情を学ぶことは意義がある。

 例を示す。

===== 引用 はじめ

 少年は重度の脳性マヒだった。14歳で詠んだ詩の一節にある

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ぼくを背負うかあさんの

細いうなじにぼくはいう

ぼくさえ生まれなかったら

かあさんのしらがもなかったろうね

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昭和50年、山田康文『ごめんなさいね おかあさん』

 
手足が不自由で会話もできない、閉ざされたはずの世界から詩は生まれた。 … 目をぎゅっとつぶれば「イエス」、舌を出せば「ノー」。目と舌の信号で紡いだ労作だった。

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ありがとう息子よ

あなたのすがたを見守って

お母さんは生きていく

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冒頭の詩に応え母が詠んだ歌である。

 
それに応えて、少年もさらに自分の詩を紡いだ。
「ありがとうおかあさん」で始まる詩は続く。

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やさしさこそが大切で

悲しさこそが美しい

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そんな人の生き方を

教えてくれたおかあさん…

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少年は詩を完成させてまもなく、短い生涯を閉じた。

===== 引用 おわり

産経抄、産経新聞(2016/07/31)

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