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2018年12月12日水曜日

(1447)  野村沙知代 ~ 「かかあ天下」のそこがいい

 
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(K0588)  野村沙知代 ~ 「ピンピンコロリ」が理想 <臨死期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0588.html
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 元プロ野球選手、監督で野球評論家の野村克也さん(83)は昨年12月、妻、沙知代さんを85歳で亡くした。「かかあ天下」の代表のように言われていたが、常にプラス思考で、マイナス思考の野村さんを奮い立たせてくれた。
 
(1)  何があっても、「大丈夫よ」と言っていた
(2)  常にプラス思考
(3)  俺にどんどん仕事をさせた
 

<展開>

(1)  何があっても、「大丈夫よ」と言っていた
===== 引用はじめ
 何があっても、「大丈夫よ」と言っていた。一番の「大丈夫よ」は、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)を首になって、幼かった克則も一緒に関西から東京へ向かう車中のこと。運転しながら「これからどうしよう。俺は野球しかできないのに、何をして生きていこう…」とつぶやくと、妻が「大丈夫よ。なんとかなるわよ」って。
===== 引用おわり
 

(2)  常にプラス思考
===== 引用はじめ
 今の俺があるのは全て奥さんのおかげ。試合で負けてしゅんとして帰っても、「何しゅんとしてんのよ! 勝負事なんだから負けることもあれば勝つこともあるわよ。明日がんばりな」って。常にプラス思考。俺と正反対なんだ。世間からは「悪妻」と思われていたかもしれないけど、俺にはぴったりの奥さんだった。
===== 引用おわり
 

(3)  俺にどんどん仕事をさせた
===== 引用はじめ
 「死ぬまで働く」はサッチーさんのモットーで、俺にどんどん仕事をさせた。ありがたいことに、今も毎日のように仕事があって、大いに気が紛れている。これもサッチーさんのおかげだよ。
===== 引用おわり
 
 
 こういう「かかあ天下」なら悪妻ではない。夫を活かしている。
 
===== 引用はじめ
 かかあ天下(嬶天下)(かかあでんか)とは、妻の権威・権力・威厳が夫を上回っている家庭を指す。
 本来は「夫が出かけている間の家を(からっ風などから)守る強い妻」や「うちのかかあは(働き者で)天下一」の意味であるが、「夫を尻に敷く強い妻」という意味で使われることがほとんどで、亭主関白の対義語として用いられることがある。
===== 引用おわり
Wikipedia 「かかあ天下」
 

 沙知代さんは、本来の「夫が出かけている間の家を(からっ風などから)守る強い妻」という意味での「かかあ天下」なのだろう。
 


<出典>
何があっても「大丈夫よ」 つらい日々、仕事で紛らわす
【最期のとき】 産経新聞(2018/11/27)
 
野球評論家・野村克也さん 妻・沙知代さん
https://www.sankei.com/life/news/181127/lif1811270016-n2.html

 

2018年12月10日月曜日

(1446)  スピノザ「エチカ」(2-2) / 100分de名著

 
(1446)  スピノザ「エチカ」(2-2) / 100de名著
 


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(K0587)  お風呂につかる人ほど要介護リスク減 <介護>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0587.html
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2回  10日放送/ 12日再放送
  タイトル:本質
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【テキストの項目】
(1)   コナトゥス――自分の存在を維持しようとする力
(2)   我々は「本質」をどうとらえているか
(3)  「変状」と「欲望」――-生態学的発想
(4)   人生を豊かにするためには
(5)  「自殺」と「死」について
(6)   私たちは表現の様態(モード)である
(7)   コナトゥスと社会
 

【展開】
(1)   コナトゥス――自分の存在を維持しようとする力
(2)   我々は「本質」をどうとらえているか


(3)  「変状」と「欲望」――-生態学的発想
(4)   人生を豊かにするためには
以上は、前回に書きました。
 
 
(5)  「自殺」と「死」について

   自殺
 コナトゥス(自分の存在を維持しようとする力)が働いていても、外部の原因が圧倒的であるき、人は自殺することがある。『自』殺と呼ばれているものであっても、自分が原因になっているのではありません。

  
 人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存在しない[…]。(第四部定理三九備考) 本質は全く違うものに生まれ変わることがあり得、それはある種の死です。
 

(6)   私たちは表現の様態(モード)である

 「変状(物が何らかの形態や性質を帯びる事)」という概念が前回出てきましたが、「様態」と「属性も重要な概念です。

   様態
 神は無限であり外部がないのだから、私たちも含めた万物がその中にいるのだという話は先に出てきた。実は、それだけではなく、私たちも万物も神の一部でもあります。
 神を無限に広がる一枚のシーツにたとえるなら、シーツに皺が寄ると、さまざまな形や模様ができますが、それが変状としての個物(私たちも含めた万物)です。シーツを引っ張ると皺は消え、元の広がりに戻りますが、シーツは消えません。その皺の寄りようが、様態(「仕方」「やり方」「様式)です。神は自然であるだけでなく実体である一方、私たちを含む万物は実体ではありません。

   属性
 神という実体が変状して様態が生まれます。その様態は思惟の属性においても存在するし(たとえば人間の精神)、延長の属性においても存在するな(たとえば人間の身体)。思惟も延長も、いずれも神の属性であるからです。属性という言葉は、一般的には実体が持つ性質を意味しますが、スピノザはそこに独特の意味が込められています。スピノザはデカルトの「(心的なものと物体は完全に独立な物だとする)心身二元論」を批判しています。
 

(7)   コナトゥスと社会

 人はコナトゥスがうまく働いて生きている時、自由である。そのような自由な人たちは、互いに感謝し合い(第四部定理七一)、偽りの行動を避け常に信義をもって行動し(同定理七二)、国家の共通の法律を守ることを欲する(同定理七三証明)。一人一人が自由に生きられることこそ、社会が安定するために一番必要なことです。自分の存在に固執する力であるコナトゥスが社会と矛盾することはありません。
 


<出典>
國分功一郎(2018/12)、スピノザ「エチカ」、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

2018年12月8日土曜日

(1445)  「感染症から身を守ろう」

 
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(K0586)  認知症の人の社会認知の障害への対処 / 小川敬之教授(3)
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0586-3.html
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 「感染症から身を守ろう」を聴講しました。「そうだったのか!」と私が思ったことだけ書き留めておきます。
 

1.   感染は、三つの条件全部が揃ったときに発生するので、どれか一つでもシャットアウトすれば感染しない。①感染源(ウィルス・細菌)、②感染経路(手から口への感染。2m以内で飛沫感染)、③感受性(抵抗力の弱い人)

2.   感染予防の三原則は、①手洗い、マスク、うがい

3.   使用後のマスクは、内側も外側も菌で汚染されているので取り扱いに注意。耳にかけていた紐だけを触って捨てるように

4.   インフルエンザの予防接種は、2週間後から効き始め、5か月ぐらいで効果が無くなる。遅くとも、12月中旬までに(接種期間は、H30/10/15H31/01/31

5.   風邪(←インフルエンザではない)の原因の多くはウィルスであり、抗生物質・抗菌薬は効かない(追加情報:風邪とインフルエンザの違い)。
  https://www.healthcare.omron.co.jp/resource/column/life/42.html

6.   アルコール手指消毒は
  処方箋通りの量を使う(ケチってはいけない)
  目に見える汚れがあるままでは無意味
  流水による手洗い後の場合は、水分をふき取ってから使用する
  乾燥時に消毒効果がある。拭き取らず、15秒かけて、擦り込んで乾燥させる
  感染性胃腸炎(ノロウィルスなど)には効果がない

7.   神戸市の感染症流行情報は、「感染症発生動向調査 週報」で検索
 


<講演>
白水(シロウズ)有紀(神戸市保健所予防衛生課)、「感染症から身を守ろう」、平成30年度第2回生活支援員研修会(こうべ安心サポートセンター)、こうべ市民福祉交流センター、2018/12/07

(1444)  スピノザ「エチカ」(2-1) / 100分de名著

 
(1444)  スピノザ「エチカ」(2-1) / 100de名著
 


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(K0585)  認知症の人の生活行為の障害への対処 / 小川敬之教授(2)
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0585-2.html
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2回  10日放送/ 12日再放送
  タイトル:本質
 

【テキストの項目】

(1)   コナトゥス――自分の存在を維持しようとする力

(2)   我々は「本質」をどうとらえているか

(3)  「変状」と「欲望」――-生態学的発想

(4)   人生を豊かにするためには

(5)  「自殺」と「死」について

(6)   私たちは表現の容態(モード)である

(7)   コナトゥスと社会
 


【展開】

(1)   コナトゥス――自分の存在を維持しようとする力
 ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質」であるとスピノザは考えました。「本質」が「力」であるというスピノザの考え方は、哲学史の観点から見ると、ここには非常に大きな概念の転換があるのです。
 コナトゥスを定義した定理は、「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。(第三部定理七)」
 「有」は「存在」とした方が分かりやすいでしょう。そして「努力」と訳されているのがコナトゥスです。
 

(2)   我々は「本質」をどうとらえているか
 古代ギリシャの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていて、実は私たちの考え方はこれと無簡易ではありません。それに対してスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。
 男性と女性というものは「形」で見ています。「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」となります。
 それに対して「力」で見ると「この人は…に優れているのだから、こんな仕事があっているだろう」となります。その人の力の性質を見て、組み合わせを考えています。

「どのような性質の力を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか」それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができるのです。
 
 
(3)  「変状」と「欲望」――-生態学的発想

   変状
 刺激による変化のことを、スピノザは「変状」と呼びます。もう少しスピノザに即して言うと、変状とは、ある物が何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることを言います。『エチカ』を読むに当たって最重要の単語の一つです。

   欲望
 たとえば私の本質は、aという刺激によって、Aという状態になることを「決定される」(例:他人から嫌味を言われて不安定になる)。そしてそのAという状態は私に、「あることをなすよう」働きかけます(例:その不安定な状態を何とかしようというコナトゥスが働きます)。この働きかけが欲望です(例:それを忘れようという欲望が生まれる)。その欲望は本質そのものなのです。
 

(4)   人生を豊かにするためには

 人間の身体を多くの仕方で刺激するような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。[…]これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。(第四部定理三八)
 多くの刺激に反応できるようになれば、それは必ずや人生を豊かにしてくれます。
 


以下については、次回に書きます。
(5)  「自殺」と「死」について
(6)   私たちは表現の容態(モード)である
(7)   コナトゥスと社会

 

 

<出典>

國分功一郎(2018/12)、スピノザ「エチカ」、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

2018年12月6日木曜日

(1443)  病んでいるのは誰か?「2018クレイジーハロウィーン事件」

 
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(K0584)  関係性障害としての認知症 / 小川敬之教授(1)
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0584-1.html
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 「1028日未明、東京・渋谷のセンター街で、軽トラックを取り囲み横転させた若者たち。」、「軽トラックを押し倒した男たち4人を逮捕。」
 
 悪いのは誰かと言うと、彼らです。許されない行為です。でも、病んでいるのは誰かと問い直すと、複雑になります。
 


 今回の事件を起こした輩は、いつの世の中にもいたと思うし、これからも居続けると思います。人間だからです。
 
 私が、気になったのは、むしろ周囲の人たちです。何故、止めなかったのか。一部の人が暴徒化したことよりも、多くの人がそれを許容したことがより深刻だと思います。
 


 四種類の人間が登場しています。①主犯者(率先して車を横転させた人たち)、②関与者(主導的ではないが、車を一緒に横転させた人)、③積極的傍観者(はやし立てた人)、④消極的傍観者(傍にいて何もしなかった人。スマホで写真や画像を撮っていた人)
 
 「①主犯者」のような人を今後出さないことが重要です。彼らは犯罪者です。彼らは病んでいます。そして彼らが病んでいることを皆知っています。しかし、今の法律では、根絶することは難しいです(厳罰化により抑止力を高めることはできますが、完全ではありません)。
 
 その現実の下で、社会を安定させ、住みよい社会にしていくには、「⑤制止する人」が必要です。それにも関わらず現れず、現れたのは③積極的傍観者や④消極的傍観者ばかりです。私は、こちらの方が気がかりです。
 

 個々人が病んでいるかどうかもありますが、社会全体が病んでいるのではないでしょうか
 
 
===== 引用はじめ
 「(防犯カメラが)250という数なので、チェックするだけ・見るだけで大変。早送りとかもできないので。1カ月余りで検挙に至るっていうのは、これはすごいことだと思う」

「捜査一課、それもエース級の係(殺人犯捜査係)を投入するというところで、(警察も)万全の体制を敷いたのではないか。年々悪質化している一部の参加者がいるので、警鐘を鳴らした形だといえると思う」
===== 引用おわり
 
日本の警察は、優秀だし、勤勉でもあるのでしょう。
ありがとうございました。
 


<関連ニュース>
スピード逮捕「逃げ得は許さん」 渋谷ハロウィーン事件
https://www.fnn.jp/posts/00407037CX
添付写真は、この画像から。

2018年12月5日水曜日

(1442) 「徳を積む」とは何か

 
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(K0583)  仏壇はモダンにコンパクトに <その他>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0583.html
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 また、Facebook友だちの日埜 昭子さんのシェアから引用させていただきます。
 
===== 引用はじめ
人間にとって大事なことは、
学歴とかそんなものではない。

他人から愛され、
協力してもらえるような
徳を積むことでは
ないだろうか。

そして、そういう人間を育てよう
とする精神なのではないだろうか。
 
 本田宗一郎
===== 引用おわり
 
 内容的には、素晴らしいと思いますし、その通りだと思います。でも、正直、何かが引っかかりました。
 
 そもそも、本田宗一郎さんは「他人から愛され、協力してもらえるような徳を積んだ」のでしょうか? 結果はそうであっても、そういう意識はなかったのではないでしょうか。


 あくまで想像ですが、本田宗一郎さんは「他人から愛され、協力して」もらった。何故、そういう素晴らしいことが起こったかと考えて、その源に「徳」という言葉を当てはめたのではないでしょうか。では、本田宗一郎さんが積んだのは、どんな『徳』だったのでしょうか。
 
 私は、本田宗一郎さんは、他人から愛されるように徳を積んだのではなく、他人から協力してもらうように徳を積んだのでもないと思います。そのような自己愛と打算から発生した『徳』は、誰をも感動させないでしょう。
 


 私の解釈では、本田宗一郎さんがしたのは、次の三つだったと思います。
  世の中の役に立つようにと、強い思いで製品開発をした
  仕事に情熱を傾けた
  周囲の人を大切にした
 
 その姿をみた人たち、接した人たちの心が動き、そのような本田宗一郎さんを愛し、喜んで協力したのではないでしょうか。
 
 つまり、本田宗一郎さんの『徳』は、「他人から愛され、協力してもらえるような徳」ではなく(それは結果的にそうなったということ)、①~③に示されるような、彼の生き方そのものだと思うのです。
 
 
 必ずしも①②③そのものではなく、それが何かは、人によって違うと思います。そして『私の①②③』を明確にし、それに打ち込んでいるうちに、他人から愛され、協力してくれる人が集まって来るのではないでしょうか。
 
 「徳」というものを掘り下げた時、本田宗一郎さんの名言が、私たちの人生に素晴らしい贈り物をあたえてくれるように思いました。




2018年12月4日火曜日

(1441) 「妥協したという思いで行動を変更する」と「現実的に考えて行動を変更する」の違い

 
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(K0582)  音楽療法(佐藤由美子さん) <臨死期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0582.html
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 「妥協しない」という生き方でうまくいく場合と、うまくいかない場合があります。「妥協せず生きる」というと何となく格好が良いし、「妥協しなくて良かった」という話もよく聞きます。
 
 しかし「妥協しなくて良かった」が当たり前なら、話題にもなりません。「妥協しなくて良かった」が稀にしか起こらない、つまり、現実は「妥協しなくて失敗した」がほとんどだと思います。「妥協しなくて失敗した」はあまりにも当たり前で、また、そんな話を聞きたい人は誰もいないので、『妥協しなくて失敗した』という本が出版されないだけのでしょう。
 

 私は先ず、「頑なに妥協しない」は好ましくないと思います。次に、「妥協したという思いで行動を変更する」ことも好ましくなく、「現実的に考えて行動を変更する」ことが好ましいと考えます。しかし、後の二つがどう違うのか、簡単ではありません。
 
 「外からの視点」「内からの視点」に分けて考えてみます。

 「外からの視点」では、両者は「始めしようとしていたことと違った行動をした」ということは同じで、区別できません。しかし「内からの視点」では、両者は全く違います。
 
 「妥協したという思いで」行動を変更した時は、自分で納得していません。「現実的に考えて」行動を変更した時は、自分で納得しています。この違いは、後に大きな違いとなって現れます。
 
 
 いずれにせよ「始めしようとしていたことと違った行動をした」ということもあり、必ずしも自分の願い通りには進みません。その時、自分で納得していない人は、「妥協したからいけないのだ」と過去に囚われ、先に意識が向きません。だから、どんどん悪い方へ落ちていきます。一方、自分で納得した人は、現在とこれからに意識が向きます。悪いながらも、すこしでも良くしようと、考え行動します。だから、少し悪くなっても、盛り返し良い方向へ向かっていきます。
 
 「妥協したという思い」の人は失敗して「反省し」、次は妥協せず失敗を重ねます。それで思い直し「妥協したという思い」で妥協し、また失敗を重ねます。

 「現実的に考えて」の人は、100%の成功は得られないながらも、現実的には許容範囲の成果を得て、「現実的に考えて」の能力を高め、地道に自分なりの人生を歩んでいきます。

 このパターンの繰り返しで、妥協しない人や「妥協したという思い」の人の人生と、「現実的に考え」の人の人生は、どんどん差がついてきます。
 
 
 「外からの視点」からは妥協したように見えても、「内からの視点」では、しっかりと「現実的に考えて行動を変更する」ことが大切だと思います。
 
 「現実的に考えて行動を変更する」ように誰かに指示をするのは、意味がありません。そうすると「妥協したという思い」が出てきてしまいます。逆に言うと、「現実的に考えて行動を変更する」よう、誰も言ってくれません。自分でコントロールするしかないのです。そこが、難しいところです。
 
 自分の思う通りにならなかったのがほとんどだ、と私の人生を振り返って思います。でも、与えられた状況の中で、与えられた自分の能力の範囲で、結構、精一杯頑張ってきたと、少し甘いかもしれませんが、自分で自分を誉めています。