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2016年9月30日金曜日

(647) 子どもの貧困問題(1) / 本質的には、貧困問題ではないのではないか


929日に「子どもを取り巻く環境『貧困問題と居場所づくりを考える』」セミナーを聴講した。

子どもの貧困問題と言うが、本質的には、貧困問題ではないと思った(私がそう思ったのであって、講師がそう言ったのではない)。貧困問題として対処するのとは別の対処を考えねばならない。

 貧困問題として対処するなら、例えば、生活保護を今以上に増やすというのが解決策になる。意味はあるが、根本的な解決にはならない。そのことを「本質的には、貧困問題ではない」と言っている。

 

(1)   「日本では、6人に一人が子どもの貧困」と言うが、定義に問題がある

絶対的な貧困で評価するのではなく、相対的貧困率で評価しているのがおかしい。

   「こどもの貧困」とは、その国の貧困線以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの存在および生活状況のことである

   「貧困線」とは、等価可処分所得の中央値の50%である

   「一人あたりの等価可処分所得」とは、家計所得を家計人数の平方根で割ったものである

   「相対的貧困率」とは、一定基準(貧困線)を下回る等価可処分所得しか得ていない者の割合である


2009年における日本の、相対的貧困率は16.0%、子どもの貧困率は15.7%であり、「これが高い」と問題視されている。この数字は「等価可処分所得の中央値」以下の人の分布形態により決まり、指標としては、不適切と考える。

 
    相対的貧困率では、本当に生活に困っているか困っていないかわからない

等価可処分所得の絶対額は関係ない。例えば、日本の全国民の等価可処分所得が一律に100倍になったとしても、相対的貧困率は変わらない。しかし、貧困問題は解決していると思われる(物価も上がるだろから、そう単純な問題ではないが、今、経済学について論じているのではない)。相対的貧困率は、絶対値ではないので、「貧困」と判定されても、本当に生活に困っているか困っていないかわからない

 
② 相対的貧困率では、所得格差を判定できない

「等価可処分所得の中央値」以上の人、この半数の人がいかに多くの所得を得ようとも、相対的貧困率は変わらない。所得格差は、全ての人を対象に考えねばならないが、富める半数を無視している。これでは、所得格差を示す指標にならない。
 
「相対的貧困率が高いので、格差社会だ」と言うのは、間違っている。

 
③ 相対的貧困率増減では、好ましい変化か好ましくない変化かは、わからない

全ての人の所得が同じなら、相対的貧困率は0%になるが、これが理想的な社会とは思えない。中央値の人の所得が上がると、相対的貧困率は上がるが、これは好ましくないことなのだろうか。

 

(2)   貧困が問題であるという、データ的根拠がない

セミナーでは、貧困が問題である根拠として、「児童虐待相談対応件数」「学校内外における暴力行為発生率」「学年別加害児童生徒数」「不登校児童生徒数」「学年別不登校児童生徒数」「高等学校の不登校生徒数」の推移を示しているが、これらは貧困の子も貧困でない子も含めての数字であり、ここから貧困が問題であるという結論は出ない。

 データ的根拠を示すためには、上記の推移の要因は、貧困だけではなく他にもいくつもの要因があって、その要因の中で貧困がどれだけのウエイトを持っているかを、数値分析により示さねばならないが、できていない。

 あるいは、貧困の子の場合はこうだが、貧困でない子の場合はこうで、統計的にその差が有意であることを示しても良い。しかし、そのようなデータは示されていない。

 そのデータを示すためには、個々の子どもの等価可処分所得を知らねばならないが、それは個人情報であって、通常は入手できない。

 つまり、データ的根拠がなく、無意味なデータを示し、あたかも根拠があるように見せかけている資料になっている。

 
 なお、私は「貧困が主要な問題なのか、そうでないのか、わからない」と言っているのであって、「貧困は問題ではない」とは言っていない。

 

(3)   本質的には、貧困問題ではないのではないか

おそらく、数字では示せないものの、現場にいる人の経験知として「貧困が問題」なのだろう。正確に言うと「貧困が深く関わる問題」というのが適切な表現だろう。

 「貧困が問題」であるなら、その解決策は「貧困をなくす」ことであり、それは経済政策や福祉政策(生活保護など)による。「寄付の文化」といったのも解決に役立とう。が、今、こういう議論をしようとしているのではない

 「貧困が深く関わる問題」ととらえると、解決策としては、直接貧困を減らす以外のことも含まれることになる。

(646) プライド、自尊心、自信


前回からの続き

 
「デジタル大辞泉」によれば、

  『プライド』は「誇り。自尊心。自負心」

  『自尊心』は「自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド」

 
大まかには、『プライド』=『自尊心』として間違いではないが、
細かく言うと、ニュアンスは異なっている。

 
「プログレッシブ和英中辞典」によれば、

  『プライド』は”pride”

  『自尊心』は、”pride; self-respect”

 
“Merriam-Webster Online “によれば、

  “pride” は、”a feeling that you respect yourself and deserve to be respected by other people””a feeling that you are more important or better than other people”” a feeling of happiness that you get when you or someone you know does something good, difficult(三つ目は『誇り』に該当するだろう), etc.

  “self-respect”は、”proper respect for yourself as a human being”

 

『プライド』と『自尊心』との違いに注目するなら、『プライド』は「他者評価・他者との比較」を必要とする。『自尊心』は「自己評価」を必要とし「他者評価・他者との比較」は必要としない。
 
『自尊心』において「自己評価」が高いことが、『自信』につながっている。『自信』がなければ、それは『自尊心』ではない。

 

前回の「なにか良いことが起こると必ず(本当はそうではないのに)、『私のおかげだ』と主張する」人は、「自分に自信がないから、プライドを高く保つ必要がある」。

だから、「その人はプライドが高いに違いない」かつ「その人は自尊心の低い人に違いない」というのは、両方とも妥当だろう。

自信がないにもかかわらず「プライドを高く保つ」ためには、「他者評価」を上げねばならず、そのため「(本当はそうではないのに)、『私のおかげだ』と『主張する』」必要が生じる。

 

なお、『プライド』には「他者との比較」が含まれるので、他者の価値を下げることにより、相対的に自己の価値を上げようとすることがある。
 
一方『自尊心』においては、「他者評価・他者との比較」は関係ないので、他者を気にしたり関わったりすることなく、自分自身の中にある評価軸に忠実になろうとする。

 

以上の意味において、
プライドではなく、自尊心をもちたい。

 

<言葉の定義のデータ>

 
出典:デジタル大辞泉
 
『プライド』
誇り。自尊心。自負心。「―を傷つける」「仕事に―をもつ」
 
『自尊心』
自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド。「―を傷つけられる」
 
『誇り』
誇ること。名誉に感じること。また、その心。「一家の―」「―を傷つけられる」
 
『自負心』
自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心。「―が強い」
 
『自信』
自分で自分の能力や価値などを信じること。自分の考え方や行動が正しいと信じて疑わないこと。「―を失う」「―満々」
 
出典:プログレッシブ和英中辞典

『プライド』 pride

『自尊心』 pride; self-respect

『誇り』 pride

『自負心』 self-confidence; confidence in one's ability

『自信』 (self-) confidence

 

 出典:“Merriam-Webster Online “

“pride” 

:  a feeling that you respect yourself and deserve to be respected by other people

:  a feeling that you are more important or better than other people

:  a feeling of happiness that you get when you or someone you know does something good, difficult, etc.   (注)これは『誇り』に該当するだろう

 
“self-respect”

:  proper respect for yourself as a human being

 
“respect

:  a feeling of admiring someone or something that is good, valuable, important, etc.

:  a feeling or understanding that someone or something is important, serious, etc., and should be treated in an appropriate way

:  a particular way of thinking about or looking at something

 
“self-confidence”

:   confidence in oneself and in one's powers and abilities

 
“confidence”

:  a feeling or belief that you can do something well or succeed at something

:  a feeling or belief that someone or something is good or has the ability to succeed at something

:  the feeling of being certain that something will happen or that something is true

2016年9月28日水曜日

(645) 「良きことは私の手柄」


「なにか良いことが起こると必ず(本当はそうではないのに)、
 『私のおかげだ』と主張する人がいる」

「そうそう、いるいる !」

から対話が始まった。

 

「その人は、どんな人だろうか ?」
という問に二つの答えが示された。

(1)   その人はプライドが高い人に違いない
(2)   その人は自尊心の低い人に違いない

 
そこで二つの疑問が沸き起こった

(1)   プライドと自尊心は似ているようだけれど、どう違うのか
(2)   プライドと自尊心が似ているのならば
「プライドか高い」=「自尊心が高い」のように思うのだけれど、
何故、「プライドが高いのに、自尊心が低い」のか

 
この(2)に対しては、

「自分に自信がなくて、自尊心が低いいから、
プライドを高く保つ必要がある」

のではないかという意見があった。

 

「プライドが高い」「プライドが低い」
「自尊心が高い」「自尊心が低い」
「自信がある」「自信がない」

 
各々の言葉の定義に遡って考察する必要がある。

 
次回に続く

2016年9月27日火曜日

(644) 人間・行為・感情の3点セット


 人間・行為・感情の3点セットを考える。

    人間:ある人が

    行為:ある行為をした結果

    感情:私の感情が動いた

 

例1:①Aさんは、②私が困っていた時に声をかけてくれて、③嬉しかった

例2:①Aさんは、②私を睨み付けたので、③嫌だった

 

この3点セットに対する私の反応は、どうも普通とは違うようである

私の場合は、二つの場合分けしているようである。

 

【ア】③がポジティブな感情(嬉しい、楽しい、ワクワクする、等々)の場合
 
【①人間】=【②行為】=【③感情】

のセットで記憶される。

そのため、

【①人間】、【②行為】、【③感情】のいずれであっても、一つから他を想起する。

(注)想起:(スル)以前にあったことなどをおもいおこすこと(デジタル大辞泉)

 
例1:①Aさんは、②私が困っていた時に声をかけてくれて、③嬉しかった
において、

  「①Aさん」というキーワードから、「②私が困っていた時に声をかけてくれて」、「③嬉しかった」を思い出す

  「②私が困っていた時に声をかけてくれて」というキーワードから、「①Aさん」、「③嬉しかった」を思い出す

  「③嬉しかった」というキーワードから、「①Aさん」、「②私が困っていた時に声をかけてくれて」を思い出す

 

【イ】 ③がネガティブな感情(嫌だ、辛い、イライラした、等々)の場合
 
【①人間】 / 【②行為】=【③感情】

つまり、【②行為】と【③感情】はセットで記憶されるが、【①人間】は伴わない。

そのため、

【②行為】から【③感情】、あるいは、【③感情】から【②行為】を想起するが、いずれもからも【①人間】は想起しない。また、【①人間】からは、【②行為】も【③感情】も想起しない。

 
例2:①Aさんは、②私を睨み付けたので、③嫌だった
において、
 
  「①Aさん」というキーワードからは、「②私を睨み付けた」も「③嫌だった」も思い出さない

  「②私を睨み付けた」というキーワードから、「③嫌だった」を思い出すが、「①Aさん」は思い出さない

  「③嫌だった」というキーワードから、「②私を睨み付けた」は思い出すが、「①Aさん」は思い出さない

 

【ウ】 【ア】および【イ】から、次のようなことが起こる

同じAさんに関して、

例1:①Aさんは、②私が困っていた時に声をかけてくれて、③嬉しかった(ポジティブな感情)

例2:①Aさんは、②私を睨み付けたので、③嫌だった(ネガティブな感情)

の両方の経験をしたとき、私は、
 
  「Aさん」というキーワードから、ポジティブな感情は思い出すが、ネガティブな感情は思い出さない

  ポジティブな感情から、「Aさん」を思い出す

  ネガティブな感情からは、「Aさん」を思い出さない

 

【エ】 「Aさん」だけでなく「Bさん」、「Cさん」とも、ポジティブな感情・ネガティブな感情の両方の経験をしたとすると、
 
  「Aさん」「Bさん」「Cさん」のいずれのキーワードからでも、ポジティブな感情は思い出すが、ネガティブな感情は思い出さない

  ポジティブな感情から、「Aさん」も「Bさん」も「Cさん」も思い出す

  ネガティブな感情からは、「Aさん」も「Bさん」も「Cさん」も思い出さない

 

要するに、私はとっても幸せな人間である。

もちろん、【ア】【イ】と厳密に分かれるわけではない。しかし、その傾向はある。

 
普通の人は、ポジティブな感情でもネガティブな感情でも、同じような反応をするだろう。

 
なかには、私と逆なパターンの人もいる。

その人は、とっても不幸な人のように、私には思える。

 

人は誰も、「好ましい経験」も「好ましくない経験」も積んできている。

その経験は、同じであっても、

その人の見方により、世界は全く違うものとして現れる。

(643) 対立的なものを乗り越える  / 「人間ブッダの探究」(3)


今回の書き込みは、(639)(640)の続き。

 こころの時代 シリーズ “ブッダ最後の旅”に学ぶ 6回「人間ブッダの探究」
【出演】東京大学大学院教授…丸井浩,【きき手】草柳隆三
918日放映済み。  より

 

対立的なものを乗り越える

(1)   中道(どちらかに偏らない、いずれでもない)

(2)   無記(沈黙の態度)

(3)   ウペクシャー(無関心。こだわらない見方)

 

西欧的なアプローチとは、まるで違う。

西欧的なアプローチでは、各々が正しいと思うことを述べ、議論して、合意していく。このアプローチは正しいと思うが、限界がある。文化、宗教が異なれば、「正しいと思うこと」が、そもそも違う。

価値観を共有するキリスト教徒の中では有効な手段でも、違う宗教と対峙するとき通用しない手段なのだけれど、それをゴリ押しする。そのことから起こっている戦争が、今でもたくさんあるのではないか。

 
===== 引用 はじめ
 欲望を中心にすると、必ず、好ましい物、自分にとって好ましい物、好ましくない物という二元対立を起こしていく。これは誤った考えだと、仏教は絶えず主張してきた。
 いずれでもない心のとらえ方を、心のなかにつくりだしていく。そういうことは、対立を起こさない生き方、生き方の根底としての見方、これが仏教の素晴らしい点だ。これはなかなか、他の思想の中には見られない。
===== 引用 おわり

 
 自分にとって好ましい物、といったことを放棄すると、自分がなくなってしまうのではないか。それで諍いがなくなっても、あまり意味がないのではないかと気になる。

 
===== 引用 はじめ
 それをまあ、中道と言うか、調和的見方、どちらにも偏らない見方という。結局は、他者に対する態度、自分を見つめることで、自己の中の矛盾的なものを見つめることが、結局、他者に対する見方に変わっていくんじゃないか
===== 引用 おわり

 
 自分の中にある矛盾を否定することなく、しっかり全部を抱え込んでいく。その延長線上で他者との矛盾も見つめる。自分を見つめているので、自分を見失うどころか、理解が深まっていく。他者との矛盾を「他人事」ではなく、自分とのかかわりの中で見つめていく。自分は、しつかりある。

 
===== 引用 はじめ
 つまり、善悪、善人とか悪人とかいうふうに、自分は善だと驕り高ぶってはいけないというのが仏教の見方。そうなってくると他者を見るときも、あの人は善人だ、あの人は悪人だと、単純にそのような形で切り分けない、誰しもが善悪の両面をかかえつつ、それをいかに乗り越えていくのかという、我々一人ひとりの有り方だということで、そういう、まあ、対立をいかに乗り越えていくかというと、思想的な営みとして、仏教ですね、ブッダの教えというものに、興味深いものがある。
===== 引用 おわり

 
 アメリカ映画では、善と悪とがはっきりしていて、最後は善が勝つパターンが多い。観客は、自分自身を善において、悪を倒すイメージで見ているのだろう。本質は、強い者が勝つ。だから、善は強くなくてはいけない。

日本のサスペンスドラマを見ていると、悪人も出てくるのだが、その悪人には悪人の事情、想いがあり、全否定しにくいものが多い。

善も悪もひっくるめて全部を救い上げるというのが仏教の考え方がだと思うが、それが多くの日本人の基盤にもなっているのではないか。