予告より1回遅れた。 「(563) 会社帰属型 → 何処へ? = 居場所」の続きであり、“「居場所」とは何か”について書く。
実は、3日前に構想が出来ていたのだが、メモを書かないでおいたら、忘れてしまった。なさけないが、これが現実で、受け入れてなんとかするしかない。新たに考え直している。
ある宗教団体について述べる。そこは、教祖から何代か経るうちに、明らかに内容が変質してきて、今では、教祖の言っていたことと相反するような主張を始めている。
外から見ているのでよくわからないが、その宗教を離れていく人も多いが、残る人も多くいるようである。何故残る人がいるのか、よくわからない。
以下は、「多分こうではないか」と私が頭で考えたことであり、「本当にそれは正しい」の確認はできていない。思いついた理由は、3つある。
(1)
経済的理由
例えば、支部長クラスになると、支部長は宗教団体からの収入で一家を養っているので、批判したり反旗を翻したりすると、職を失い家族が路頭に迷う。骨のある支部長は既に去っており、そうでない人たちが残っているので、上意下達しかない。
(余談だが、「じょういかたつ」と読む。
「じょういげだつ」で辞書を引いても、出て来ない)
(2)
営業的理由
その宗教団体にまつわりビジネスを展開している人にとっても、批判は御法度である。市場規模が小さくなっても、存在する限りそう簡単に手放せない。宗教団体の一員であることを示し続けるのは、商売継続の必要条件である。
宗教団体の話をしている。(1) (2) の人もいるだろうが数としては少数派で、大多数は信仰心でつながっている筈である。
教義が変わっても離れていかないのは何故か
(3)
居場所的理由
あくまで推測であるが、「居場所」が絡んでいるのではないか。
お年寄りが多い。彼らの人間関係が、その宗教団体の人たちがほとんどだと、その宗教から離れることは、ほぼすべての人間関係がなくなるということである。
きょういく(今日行くところ)を失い、きょうよう(きょうの用事)を失う。耐えられないであろう。生きていくハリを失ってしまいかねない。
私がそう思ったまでのこと、とご理解いただきたい。
(1)
宗教において、居場所的意味合いが大きいのではないか
(2)
その居場所的意味合いは、信仰より大きくなることもあるのではないか
宗教一般について述べているのではない。
そういう現象を観察できる場面もあるだろう、と言っているのである。
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