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2016年7月10日日曜日

(565) 一人曠野を行け / 坂口安吾『堕落論』(2-2)(7月11日(月) 22:25- Eテレ放送)


『堕落』するには、

(1)   大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさる
(2)   赤裸々な心になり、厭な物は厭だと言い、好きな物は好きだと言う

 
とは言っても、『堕落』することは、大変なことである。

(a)   道義から転落することは、大変エネルギーが要る
(b)   堕落には自分以外に頼るものがない、つまり孤独である
(c)   一人曠野を行かねばならない
多くの場合、人はその孤独に耐えることができず、あてがいぶちの道具やイデオロギーにすがってしまう。その誘惑に屈することなく孤独の道を進み続けなければならない。

 

(a)   道義から転落することは、大変エネルギーが要る。

===== 引用 はじめ  P.38
… 堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。 …

 
血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
===== 引用 おわり (段落は変えている)

 

(b)   堕落には自分以外に頼るものがない、つまり孤独である

===== 引用 はじめ  P.39 – P.40
 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。

 
即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外の術のない宿命を帯びている。
===== 引用 おわり (段落は変えている)

 

(c)   一人曠野を行かねばならない

多くの場合、人はその孤独に耐えることができず、あてがいぶちの道具やイデオロギーにすがってしまう。その誘惑に屈することなく孤独の道を進み続けなければならない。
 
===== 引用 はじめ  P.40
 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然と死んでいく。

 
だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。
===== 引用 おわり (段落は変えている)

 

 安吾の『堕落論』の思想は、世界的に見ると、同時代フランスの哲学者サルトルの説いた実存主義の思想に重なる点が多い。

===== 引用はじめ  P.42 – P.43
 サルトルの実存主義とは、一口で言えば、人間の本来的なあり方として実存は本質に先立つとする思想です。


人間は本来そうした神による規定に縛られない自由な存在であり、自分が何者であるかということを無から出発して自力で見出していかねばならないとする

- こうした人間の在り方を実存と名づける - 思想であり、

 
まさに世間の慣習、常識の束縛から解き放たれて独力で自分だけの新しい生き方を求めていかねばならないという安吾の思想に通底するものと言えるでしょう。
===== 引用おわり (段落は変えている)

 二人を比較しながら書いてあり、わかりやすい。

 

 神やイデオロギーに頼らない生き方は自由であるが、その生き方は楽でないという認識も共通している。

===== 引用はじめ  P.43 – P.44
サルトルは講演録『実存市議とは何か』の中で「人間は自由の刑に処せられている」と述べていますが、

 
安吾も『堕落論』の中で、「終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定と不自由さに気づくであろう」と書いています。

 
自由は決して楽ではないけれど、それを引き受けるのが人間に課せられた宿命だというのが二人の共通する認識です。
===== 引用おわり (段落は変えている)

 

100de名著では昨年11月に、サルトル『実存主義とは何か』 ~ 「私」自身をつくる ~ を取り上げている。

 
出典:
大久保喬樹(2016/7)、坂口安吾「堕落論」、100de名著、NHKテキスト

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