【 孤独感 ・ ヘミングウェイ 】孤独感から免れるため友達をたくさん作ろうとする人もいますが、それだけでは、寂しさから免れるかもしれませんが、孤独感から解放されるとは限りません。人や友達の数・量ではなく、質の問題だと思います
まわりに人がいなくて寂しいというのは、寂しいという感情であり、孤独感とは違うと思います。
多くの人に取り囲まれて、友達もたくさんいるような人が孤独を感じ、一方、周りに人がいなかったり、友達がいないような人が孤独を感じていないこともあります。
孤独感から免れるため友達をたくさん作ろうとする人もいますが、それだけでは、寂しさから免れるかもしれませんが、孤独感から解放されるとは限りません。人や友達の数・量ではなく、どのようなかかわりを持っているかの、質の問題だと思います。
孤独感というと、普通、人の要素を考えるが、人に限るものではなく、大自然であったり、動植物であったり、思い出であったり、思い出の物であったり、思いであったり、希望であったりいろいろなものがあるでしょう。ペットの癒しは良い例だと思います。
要するに、「自分の外」とのつながり感や一体感や共感などがあるかないか。これらを得るためには、自己完結では打開できずに、自ら、自らを取り囲んでいる壁を溶かしていくように働きかけが必要なのだが、過去にトラウマのようなものがあって、そのために自らの閉じこもってしまっている人が多いのではないでしょうか。そのような場合では、トラウマの克服が、孤独感解消のキーになるように思います。
ヘミングウェイの小説を読んでいると、ヒントが得られるのではないでしょうか。
ヘミングの小説の中で、「敗れざる者」は『老人と海』と驚くほどよく似ています。書かれたのは「敗れざる者」が1925年で、『老人と海』は50年頃ですから、『老人と海』の方が「敗れざる者」に似たと言うべきなのかもしれません。ともかくこの短編は、ヘミングウェイのごく初期の作品であるにもかかわらず、晩年に書かれた名作と、構成やテーマが共通しているのです。一方で異なる点もあります。孤独感が違うのです。
『老人と海』では、老人サンチアゴは誰もいない洋上で一人、魚と闘いましたが、『敗れざる者』の闘牛士マヌエルの場合は衆人環視のうえ、何人も補佐役がいます。 … 補佐役がいくらいても、必ずしも彼らはマヌエルと運命を共にする仲間ではないのです。そういう意味では、マヌエルも孤独のうちに死に直面した老人と似ていると言えます。
『老人と海』の物語を読んでみると、不思議と彼には一人ぼっちという感じがありません。それは、老人が自然に対して友愛の念を持っているからです。彼はとにかく自然に対して謙虚なのです。
海は力でねじ伏せるものではない。大きな恵みを与えてくれる存在なのだ。老人はそんなリスペクトを海に対して持っています。
海の生き物も老人にとっては敵ではなく仲間です。カジキが食いついた日の夜、二頭のイルカが舟の近くにやってきます。 … さらに彼は、昔、夫婦で泳いでいたカジキのうち雌を捕まえたら、雄がずっと付いてきたことを思い出し、ああいう愛情の形はいいなと思ったりします。
『老人と海』で、最後には老人が勝ちます。
この老人とカジキの闘いは、老いてなお屈強な漁師が「やってやった―」という印象はまったくありません。釣り綱のあちらとこちらにつながれ、綱を通してずっとコミュニケーションを取っていた二人。そのコミュニケーションがクライマックスに達し、両者の距離が一時的にゼロになった。一体化した。勝ち負けとは別の次元の高まりがそこにはあります。これはもう殺し合っていると同時に愛し合っているとも言え、心臓に錯を突き立てるところはエロティックにすら感じられます。
<出典>
都甲幸治(2021/10)、『ヘミングウェイ スペシャル』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
<添付写真>
https://team-blocks.com/post-236/
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