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2017年4月23日日曜日

(852) 「死」を見つめて生きる(3)人生は旅である / 人生論ノート(4-3)


~ 『100分で名著』 424() 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~

 
「自分の人生における充実した時期」を振り返ると、それは目標を達成した時というより、目標に向かって努力している時、特に、手応えを感じている時だと思う。そういう意味において、今も充実している。

目標を達成した時はとても嬉しいが、長続きしない。輝いていた目標も、手に入れると輝きを失う。なにか物足りなくなり、次の目標に向かって進みはじめたとき、その物足りなさは薄らぐ。

 

===== 引用 はじめ

若くして亡くなった人について、道半ばで無念であったろうというふうに考えるのは、実は違うのではないかと私は思います。到達点だけでなく、過程を見れば、そこにはその人にとっての喜びや充実した時間があったはずです。いつ、どこで人生を終えたとしても、生きた瞬間、瞬間が完成しているのです。

===== 引用 おわり

「人生は旅である」「たとえ目的地に辿り着けなかったとしても、旅の途中を味わっていれば、得るものは様々あります」という。上記の引用と符合する。

 

三木は「旅について」いろいろ語っている。

 
『出発点が旅であるのではない、到達点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である』

『旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである』

『真に旅を味い得る人は真に自由な人である。 … 人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである』

 
自由な人生の旅を楽しみたいものである。

 

一言、書き加える。

「若くして亡くなった人について、道半ばで無念であったろうというふうに考えるのは、実は違う」と先に引用した。最初はそうだったと思ったが、美しい話ではあるが、実際は違うのではないかと思った。無念に決まっている。無念でなければ、必死に生きていなかっただけだ。

必死に生きていて、一つよいことがあるだろう。それは、
避けられない運命に遭遇した時、時間はかかるだろうが、
最終的には、その運命を受け容れることができることである。

受け容れることはできても、無念はやはり、無念であろう。

 

===== テキストの結び はじめ

… 『人生論ノート』を読んだからといって、本書で取り上げられている問題に直ちに答えられるわけではありません。しかし、どう考えていけば充実して豊かな人生を歩めるかという指針は見つかるでしょう。…

===== テキスト結び おわり


岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100de名著、NHKテキスト
写真:三木の故郷、竜野


5月は、陳寿『三国志』 ~ 英雄たちの“真の姿”とは ~
テキストは、4月25日発売予定


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