「執着してはいけない」と普通は言われそうだが、
三木は執着を肯定的にとらえ、執着は生きる力になるし、死ぬ力にもなるとしている。
執着するものがあれば死ぬに死ねないという。ならば、それは生きる力になるはずである。例えば、「我が子の行く末を見届けずに死んでしまうのは何とも寂しい」と思うと、なんとか生き続けようとするだろう。
一方、『死後自分の帰ってゆくべきところ』があると思えば、その思いは死ぬ力にもなるであろう。帰ってゆくべきところはとは、思いを残した人のところである。この話は、次の一つ目に繋がる。
テキストには様々なことが書いてあるが、私が要約すると、「死んでも生き続けると思える」ことが「死ぬ力」になる。それは、3つある。
第一に、生き残った愛する人の中に生き続ける。亡くなった人のことをありありと思い出しているいるとき、まるでその人が今ここにいるかのように感じることがある。娘・洋子が思い出してくれた時、三木も戻ってこれるかもしれない。
第二に、自分が死ねば、愛する死んだ人と会えるかもしれない。三木も妻・美恵子と会えるかもしれない。『自分の親しかった者と死別することが次第に多くなった…。もし私が彼等と再会することができる
―― これは私の最大の希望である ―― とすれば、それは私の死においてのほか不可能だろう』
第三に、作品や業績の中に生き続ける。『その人の作ったものが蘇りまた生きながらえるとすれば、その人自身が蘇りまた生きながらえる力をそれ以上にもっていないということが考えられ得るであろうか』
結果は、どうだったか
第一 → 三木は多分、娘・洋子の中で生き続けただろうが、確認はしていない
第二 → 三木が死後、妻・美恵子と会えたかどうかは、定かでない
第三 → 三木の作品・思想は生き続け、三木も生き続けている
私も、似たことを考えている(似てはいるが違う)。
死の恐怖の本質は、自分が死によって無くなってしまう恐怖であろう。自分が永遠なるものと一体化したとき、死の恐怖から逃れることができる。永遠なるものは、神であっても、自然であっても、人類であっても、作品や業績であってもよい。「その人にとっての永遠なるもの」であればよい。
「私にとっての永遠なるもの」は、子どもたちであり、深く関わった人たちである。私が生きていなかったら、私がいなかったら、それらの人達は、良きにつけ悪きにつけ違ったものであっただろう。望んでも望まなくても、私は「否応なく」生き続けるだろう。
だから、そのようなことを(死について)思い悩んでも意味がない。
私にできることは、よく生きること。これ以外はない。
引用:
岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100分de名著、NHKテキスト
写真:西田幾多郎と三木清との写真。西田幾多郎から三木清への葉書。
0 件のコメント:
コメントを投稿