「虚無」という言葉は色々な人が使い、人それぞれの「虚無」の定義やイメージがあるであろう。ここでは「私のいう虚無」をいったん捨て去り、真っ白な状態で「三木のいう虚無」とは何かを理解しようとするところから始めないと、理解は進まない。「三木のいう虚無」は、心理的なものではない。
「三木のいう虚無」と「三木のいう自己」は、セットになっている。
三木は、海と波や泡沫との関係に譬えて語っている。
「三木のいう虚無」 … 「大海」
「三木のいう自己」 … 「波や泡沫」
我々に身近な「大海」「波や泡沫」を先ずイメージし、
それぞれを「虚無」「自己」に置き換える。
===== 引用はじめ
虚無が大海なら、自己は波や泡沫のようなものでしょう。どんなに小さな泡沫も海とは区別されます。でも、海がなければ泡沫も存在しえない。その意味で、海は波や泡沫が存在するための条件であり、虚無は人間が存在するための条件であるということです。
===== 引用おわり
虚無は人間が存在するための条件であり、その虚無とは区別される人間の生を我々は「形成」する。どのようにして形成するかというと「自ら何かを作ることで、自己は形成される」
===== 引用はじめ
生命はみずから形として外に形を作り、物に形を与えることによって自己に形を与える。
…
今日の人間の最大の問題は、かように形のないものから如何にして形を作るかと言うことである。
===== 引用おわり
この形成を行うのは、人間の想像力、三木の言う「構想力」である。
具体的に言うと「混合の弁証法」であるが、これを説明し始めると長くなるので、ここでは触れない。
引用:
岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100分de名著、NHKテキスト
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