~ 『100分で名著』 4月17日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
私は、孤独という言葉に良いイメージを持っている。煩わされなくて気楽だ。人から支配されたり影響されたりする危険が小さい。一人でいて寂しいと思うことがない一方、パーティなどでは違和感というか、その場に馴染みにくいというか、何か時間を無駄遣いしているというか、そんな気持になることがある。「大勢の人の中にこそ孤独はある」は、実感として、よくわかる。
(1) 三木は、孤独を肯定的に語っている
『すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる』『孤独の何であるかを知っている者のみが真に怒ることを知っている』
(2) 『私はむしろ孤独を求める』
『永遠なるものの観想のうちに自己を失うとき、私は美しい絶対の孤独に入ることができる』
(3) 大勢の人の中にこそ孤独はある
『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである』
(4) 孤独と孤独感は違う
人が「自分は孤独だ」と語る時、それが周囲に認められたい、注目されたいという社会化された気持ちからくるものであれば、それは「寂しい」という孤独感である。しかし、私は一人であるという自覚に基づいた意識であれば、それはむしろ知性に属する。そこに顕れるのは寂しさより勇気、あるいは覚悟である
(5) 孤独に耐えられることの大切さ
一人でいる、一人でいられるというのは、対人関係の課題から逃れているという意味ではない。さらにいえば、物理的に一人ぼっちでなくてもいい。大勢の中にあって、自分だけが周囲と意見・考えを異にするという一人ぼっちもある。そうした孤独に耐えられるということは大事なことである。
引用:
岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100分de名著、NHKテキスト
写真:竜野中学校時代の三木清
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