(837) 自分を苦しめるもの(2)怒り / 人生論ノート(2-2)
~ 『100分で名著』 4月10日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
私が最も気に入っているのは、(6)の「本当に怒るべき時は、たった一人でも、たとえ支持してくれる人が誰もいないような孤独な状況であっても、怒ることを恐れてはいけない。」である。これで随分、損をしてきたように思うが、後悔はしていない。
(1) 「怒り」ではなく「憎しみ」を避けよ
最近は怒りの「倫理的意味」が忘れ去られ、「ただ避くべきものであるかのように」考えられているけれど、避けるべきは「憎しみであって怒りではない」
(2) 怒りは三段階に区別できる
神の怒り、名誉心からの怒り、そして気分的な怒り
(3) 怒りという感情は、人と人とを引き離し、遠ざける感情である
永続することで愛は浄化され、上昇していくけれど、怒りには下降の道しかない。
(4) 怒りを鎮める方法
『我々の怒の多くは気分的』な怒りである。『気分的なものは生理的なものに結び附いている。従って怒を鎮めるには生理的な手段に訴えるのが宜い』
(5) 怒りを避ける最上の手段は「機知」である
相手が怒った時も、本当に自信がある人はその挑発に乗ったり、自分の優越性を示して相手をますます怒らせたりするような愚は犯さない。
(6) 怒ることを恐れてはいけない
本当に怒るべき時は、たった一人でも、たとえ支持してくれる人が誰もいないような孤独な状況であっても、怒ることを恐れてはいけない。
<各論>
(1) 「怒り」ではなく「憎しみ」を避けよ
最近は怒りの『倫理的意味』が忘れ去られ、『ただ避くべきものであるかのように』考えられているけれど、避けるべきは『憎みであって怒ではない』
怒りは突発的だが、憎しみは習慣的で永続的。
怒りが純粋性、単純性、精神性を示すのに対し、憎しみは自然性を現す。
目の前にいる人には突発的な怒りを持つが、目の前にいない人に対しては憎しみを持つ。
(2) 怒りは三段階に区別できる
神の怒り、名誉心からの怒り、そして気分的な怒り。
気分的な怒りが生理的なものだとすれば、名誉心からの怒りは人間的な怒り、社会的な次元の怒りであり、それを感じるのは、人格の独立性、あるいは人間の尊厳を冒された時である。
名誉心からの怒りや気分的な怒りは憎しみに結びつく可能性もあるが、憎しみに転化しない神の怒りは、いわば「正義」の別名である。
(3) 怒りという感情は、人と人とを引き離し、遠ざける感情である
永続することで愛は浄化され、上昇していくけれど、怒りには下降の道しかない。
愛は『統一であり、融合であり、連続である』けれども、怒りは『分離であり、独立であり、非連続である』
(4) 怒りを鎮める方法
『我々の怒の多くは気分的』な怒りである。『気分的なものは生理的なものに結び附いている。従って怒を鎮めるには生理的な手段に訴えるのが宜い』
その一つが体操である。体操は『身体の運動に対する正しい判断の支配であり、それによって精神の無秩序も整えられる』
また、『我々の怒の多くは神経のうちにある』から、空腹や睡眠不足など、神経を苛立たせる原因になるようなことも避けるべきである。
(5) 怒りを避ける最上の手段は「機知」である
相手が怒った時も、本当に自信がある人はその挑発に乗ったり、自分の優越性を示して相手をますます怒らせたりするような愚は犯さない。
『ひとは軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。彼の名誉心は彼の怒が短気であることを防ぐであろう。ほんとうに自信のあるものは静かで、しかも威厳を具えている』
(6) 怒ることを恐れてはいけない
本当に怒るべき時は、たった一人でも、たとえ支持してくれる人が誰もいないような孤独な状況であっても、怒ることを恐れてはいけない。
三木が肯定的に語っている怒りは感情的な怒りではなく、理想を追求するがゆえの毅然とした態度なのである。
引用:
岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100分de名著、NHKテキスト
写真: 三木の故郷、竜野・白鷲山にある「三木清の哲学碑」。『人生論ノート』「怒について」の一節が刻まれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿