「生への執着が先ずなくなり、次に死が訪れる」ために、
次の三つが大切だと思う。
即ち、
(1)
過去を考えない
(2)
未来を考えない
(3)
今できることを考える
… ところまで、前回述べた。
私が心がけたいのは、次のことである。
(1)
過去を考えない
受け容れる(変えることのできない過去や運命を受け容れる)
(2)
未来を考えない
委ねる(他人や成り行きにまかせる)
(3)
今できることを考える
①
誠実に行動する(元気な時:後悔しないよう、今を精一杯生きる)
②
祈る(何もできなくなった時:意識さえあれば、できる)
過去を反省し今後に生かすことも、未来を想定し計画を立てることも、もはや残された時間が少ないので、あまり意味がない。今までの人生を振り返って後悔の念で押しつぶされそうになったり、自分の死後のことを心配して不安にかられたりするなど、情緒的なトラブルをかかえると、生に執着がわき、穏やかに死んで行きにくくなる。
もしもここで「受け容れる(変えることのできない過去や運命を受け容れる)」「委ねる(他人や成り行きにまかせる)」というように切り替えられたら、後悔や不安は、ずいぶん緩和されるだろう。
なお、過去の楽しかったことを思い出したり、お世話になったことを思い出して感謝したりすること、未来に向けて家族に伝えたいことを伝えておくことは、安らかな死を迎える力を与えてくれるだろう。杓子定規に「過去を考えるな」「未来を考えるな」と言っているのではない。
人間は、暇になったらろくなことはない。今することがない、考えることがないと、思いは過去や未来に向かってしまう。
また、人間は「自分は何かの役に立っているか」などとついつい考えてしまうものであり、だんだん体が不自由になってくると「役に立たない自分は生きていても意味がない」などと思ってしまう。
だから、今できることを考えるのは、とても大切なことである。しかし、ベッドに横たわって、自分の手足すらまともに動かせなくなって、いったい何ができるというのか。
すべての運動能力が失われても、意識さえあればできることがある。それが祈りである。「どうぞ、元のような元気な体に戻してください」と自分のための祈りではなく、残された家族、子や孫、若い人たちの幸せを願っての祈りである。
祈りについては、「(665) 祈らずにはおられない」「(666) 2種類の祈り」「(667) 言葉と思考」で述べた。役立つのは、「邪な祈り」ではなく、「本物の祈り」である。
「受け容れる」「委ねる」「祈る」には、共通点がある。
受け入れられないのは、自分がなんとかしようとしているからである。委ねられないのは、自分がなんとかしないとうまくいかないと思っているからである。邪な祈りをしてしまうのは、自分の利益を願うからである。
自分をどう位置づけるか、自分とどう向き合うかで、「受け容れる」「委ねる」「祈る」ができたり、できなかったりする。
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