前回のFacebookで「藤波さんが言われているのは、祈る?=願う?」というコメントをいただいた。大切なことなので、あらためて取り上げる。
日常生活で使う言葉は、色々な人が、色々な言葉を、色々な状況で、色々な意味を込めて使う。だから、それぞれの言葉の意味する範囲がボワーと広く、重なり合い、違いが明確でなくなる。それでは思考が深まらない。
思考を深めるために、「世の中では色々な意味で使われているようだが」、「私はこの言葉をこういう意味で使う」と宣言する方法がある。
もう一つは、「重なり合い、違いが明確でない」に対して、「重なりはなく、違いが明確である」さらには「対極にある」「真反対である」と位置づけ、何故違うのか、どう対極にあるのかを説明しようとする方法である。そうすると、各々の言葉の使い方が狭まり(狭めなければ違いを説明できない)、定義が明確化される。
第一の方法については、私は二つの事例をあげた。私がここで「祈る」という言葉を使う時、それは一般的に使われるのとは少し違うかもしれないが、「こういうのを私は祈りと呼びます」「私が祈りという言葉を使う時、こういう意味だと理解してくださいね」と宣言している。つまり私のいう祈りは、「世間いうボワーとした範囲の祈り」の、このあたりの一部だと説明し、意味の範囲を絞り込んでいる。
第二の方法については、「本物の祈り」と「邪な祈り」とを対置することにより、「本物の祈り」がどのようなものであるかを明確にしようとしている。
前置きが長くなってしまった。「祈る?=願う?」に戻る。
三つの相を想定したい。
(1)
「世間一般の祈る?=世間一般の願う?」
(2)
「Ayako Uedaさんの祈る?=Ayako Uedaさんの願う?」
(注)Ayako Uedaさんは、コメントしてくれた人
(3)
「藤波の祈る?=藤波の願う?」
(注)藤波は、私
(1)
については、意味の広がりが大きく、重なる部分も重ならない部分もあり、なんとも言えない
(2)
については、Ayako Uedaさんがどういう定義でその言葉を使っているか、私にはわからない。多分、世間一般で使っているより限定した意味で使っていて、藤波とは違う限定の仕方をしていると思う。なんとも言えない
(3)
私に関心があるのはここだけである
私が書いたのは、
「本物の祈り」≠「邪な祈り」
「本物の祈り」は、
・ 大切なものは、自分の外にある
・ 自分でできることは、すべてしている
「邪な祈り」は、
・ なすべきことをなさず、
・ 自分の利益を願う
「願う」という言葉は、私は定義していない。
世間一般の使い方ならば、「本物の祈り」も「邪な祈り」も、「願い」に含まれていると思う。何しろ「ボワーとしたひろい範囲」で使っているので。
「余計にわからんようになってしもうた」でしょうか。
ごめんなさい。
私は、こういう説明しかできないのです。
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