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2016年10月17日月曜日

(664) 受け容れることにより、自分の人生の主体者になる


前回からの続き

 
<目次>

(1)   自分の人生の主体者になる

(2)   コントロール可能な領域と、コントロール不可能な領域

(3)   コントロール不可能な領域があるにもかかわらず、人生の主体者となれる

(4)   受け容れるのを拒否する選択肢もある

(5)   高齢になるとコントロールできない領域が増えてくる

(6)   ①か②かは、相対的に決まる面がある

(7)   ①か②か、本当はわからないことが多い

(8)   「あなたの主体性を認めない」という要求

(9)   最終的には本人の問題であり、他者のできることには限界がある

 

<各論>

(1)   自分の人生の主体者になる

自分の人生の主体者になる(自分のことは自分で決める)こと、
これが生きているということだろう。


 
(2)   コントロール可能な領域と、コントロール不可能な領域

二つの領域がある
    コントロール可能な領域
    コントロール不可能な領域

例えば、肌の色が黒とか黄とか白とかは、生まれながらにして決まっているもので②である。もしも頑張って成績が良くなったとしたら、それは①になる

 
 
(3)   コントロール不可能な領域があるにもかかわらず、人生の主体者となれる

人生にコントロール不可能な領域があるにもかかわらず、人生の主体者になるためには、受け入れることが必要である。受け入れることができれば、人生の主体者ななるチャンスが巡ってくる。

 コントロール不可能な領域を受け容れると、残るのはコントロール可能な領域のみとなる。しかも、受け容れるということは、本人が決めることであり、他者の誰も関与できない。つまり、受け容れることは、基本的に、コントロール可能な領域にある。

 受け容れることを含めると、人生に起こることすべてがコントロール可能領域に入り、全ての人はその人の人生の主人公になれる

 

(4)   受け容れるのを拒否する選択肢もある

先に「受け容れることは、基本的に、コントロール可能な領域にある」と書いた。この「基本的に」という言葉が微妙である。

 ある人は、「受け容れよと言われたが、私にはとうてい受け容れられない」と言って、受け入れない人もいるだろう。「受け容れを拒否する権利」は、誰も侵害できない。

 誰にも強制されることなく、受け入れを拒否するなら、その時点でその人は、人生の主体者となっている。

 その結果その人は、コントロール不可能な領域をコントロールしようとするので、思いは実現できず苦しくなると予想できるが、他の人はそれを何ともできない。本人が選んだ道の「副作用」は、当人が追うしかない。それが嫌だから受け入れるのか、それでも受け容れないかは、人生の主体者であるその人が決めることである。

 

(5)   高齢になるとコントロールできない領域が増えてくる

年を取ると足腰が弱くなり、杖をつかないと歩けなくなり、やがて車椅子でないと移動できなくなる。歩けたらな、と思うが、思い通りにはならない。このとき、歩けないという現実を受け容れよう、そこから始めよう、ということである。

 杖や車いすを使用して、できることはやろうという姿勢である(残存能力の活性化)。

 

(6)   ①か②かは、相対的に決まる面がある

例えば、100m11秒で走れと言われて、一部のアスリートは走れるのでコントロール可能な領域になるが、ほとんどの人はいくら練習しても到達できないのでコントロール

 

(7)   ①か②か、本当はわからないことが多い

二つの領域があるといった
    コントロール可能な領域
    コントロール不可能な領域

しかし、
(a)   自分はコントロール可能な領域と思っていたが、実はコントロール不可能な領域だった
(b)   自分はコントロール不可能な領域と思っていたが、実はコントロール可能な領域だった
ということもあり得る。

問題点としては、③の場合は延々と失敗し続け、④の場合は可能性を自ら捨ててしまうことになる。

とりあえずは、コントロール可能な領域かコントロール不可能な領域かを仮決めして進み始めるが(仮にでも決めないと先に進めない)、本当にそうだったのか、違っていたのではないか、と時折見直すのがよいだろう。

 

(8)   「あなたの主体性を認めない」という要求

「あなたの主体性を認めない」という要求を受け入れると、主体性は認められなくなるので、このような要求に対し、この方法は使えない。

 

(9)   最終的には本人の問題であり、他者のできることには限界がある

私は「自分の人生の主体者に、誰もがなれる」と言った。

 人生の主体者として「私は自分の人生の主体者にならない」人生を選ぶことすらできる。そのような人が、一人でも少なくなることを祈る。

 

 このシリーズおわり

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