前回からの続き
<目次>
(1)
自分の人生の主体者になる
(2)
コントロール可能な領域と、コントロール不可能な領域
(3)
コントロール不可能な領域があるにもかかわらず、人生の主体者となれる
(4)
受け容れるのを拒否する選択肢もある
(5)
高齢になるとコントロールできない領域が増えてくる
(6)
①か②かは、相対的に決まる面がある
(7)
①か②か、本当はわからないことが多い
(8)
「あなたの主体性を認めない」という要求
(9)
最終的には本人の問題であり、他者のできることには限界がある
<各論>
(1)
自分の人生の主体者になる
自分の人生の主体者になる(自分のことは自分で決める)こと、
これが生きているということだろう。
(2)
コントロール可能な領域と、コントロール不可能な領域
二つの領域がある
①
コントロール可能な領域
②
コントロール不可能な領域
例えば、肌の色が黒とか黄とか白とかは、生まれながらにして決まっているもので②である。もしも頑張って成績が良くなったとしたら、それは①になる
(3)
コントロール不可能な領域があるにもかかわらず、人生の主体者となれる
人生にコントロール不可能な領域があるにもかかわらず、人生の主体者になるためには、受け入れることが必要である。受け入れることができれば、人生の主体者ななるチャンスが巡ってくる。
コントロール不可能な領域を受け容れると、残るのはコントロール可能な領域のみとなる。しかも、受け容れるということは、本人が決めることであり、他者の誰も関与できない。つまり、受け容れることは、基本的に、コントロール可能な領域にある。
受け容れることを含めると、人生に起こることすべてがコントロール可能領域に入り、全ての人はその人の人生の主人公になれる
(4)
受け容れるのを拒否する選択肢もある
先に「受け容れることは、基本的に、コントロール可能な領域にある」と書いた。この「基本的に」という言葉が微妙である。
ある人は、「受け容れよと言われたが、私にはとうてい受け容れられない」と言って、受け入れない人もいるだろう。「受け容れを拒否する権利」は、誰も侵害できない。
誰にも強制されることなく、受け入れを拒否するなら、その時点でその人は、人生の主体者となっている。
その結果その人は、コントロール不可能な領域をコントロールしようとするので、思いは実現できず苦しくなると予想できるが、他の人はそれを何ともできない。本人が選んだ道の「副作用」は、当人が追うしかない。それが嫌だから受け入れるのか、それでも受け容れないかは、人生の主体者であるその人が決めることである。
(5)
高齢になるとコントロールできない領域が増えてくる
年を取ると足腰が弱くなり、杖をつかないと歩けなくなり、やがて車椅子でないと移動できなくなる。歩けたらな、と思うが、思い通りにはならない。このとき、歩けないという現実を受け容れよう、そこから始めよう、ということである。
杖や車いすを使用して、できることはやろうという姿勢である(残存能力の活性化)。
(6)
①か②かは、相対的に決まる面がある
例えば、100mを11秒で走れと言われて、一部のアスリートは走れるのでコントロール可能な領域になるが、ほとんどの人はいくら練習しても到達できないのでコントロール
(7)
①か②か、本当はわからないことが多い
二つの領域があるといった
①
コントロール可能な領域
②
コントロール不可能な領域
しかし、
(a)
自分はコントロール可能な領域と思っていたが、実はコントロール不可能な領域だった
(b)
自分はコントロール不可能な領域と思っていたが、実はコントロール可能な領域だった
ということもあり得る。
問題点としては、③の場合は延々と失敗し続け、④の場合は可能性を自ら捨ててしまうことになる。
とりあえずは、コントロール可能な領域かコントロール不可能な領域かを仮決めして進み始めるが(仮にでも決めないと先に進めない)、本当にそうだったのか、違っていたのではないか、と時折見直すのがよいだろう。
(8)
「あなたの主体性を認めない」という要求
「あなたの主体性を認めない」という要求を受け入れると、主体性は認められなくなるので、このような要求に対し、この方法は使えない。
(9)
最終的には本人の問題であり、他者のできることには限界がある
私は「自分の人生の主体者に、誰もがなれる」と言った。
人生の主体者として「私は自分の人生の主体者にならない」人生を選ぶことすらできる。そのような人が、一人でも少なくなることを祈る。
このシリーズおわり
0 件のコメント:
コメントを投稿