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2016年10月25日火曜日

(672) 「尊厳死」を紐解く


  前々回(670)からの続き

 
 既に書いてきたことの繰り返しになると思うが、
あらためて整理した。

 
 一般財団法人 日本尊厳死協会のホームページによれば、

「尊厳死とは、不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のことです。本人意思は健全な判断のもとでなされることが大切で、尊厳死は自己決定により受け入れた自然死と同じ意味と考えています。」


 

先ず、これは正しいかと言うと、正しい。

 日本尊厳死協会が「わたしたちは『尊厳死』をこのように定義します」と言っている。それは日本尊厳死協会が自由に決めてよいことであって、何人もそれを「正しくない」とは言えない

 
次に、これは適切かと言うと、私から見ると、適切な部分と、適切さを疑問視する部分とがある。

 「尊厳死」という言葉を情緒的に使うのではなく、しっかりと定義することにより、考えたり議論したりするときの基盤を整備したことは、適切だと思う。

 一方、「尊厳死」という名付け方は疑問視している。また、手続きによる定義形式も、疑問視している。

 

さて、

日本尊厳死協会の定義だが正しいとすると、
「延命措置を受け容れると、尊厳死できない」
というのも、正しくなる。

そう言われると、延命措置してはいけないように
思ってしまいそうだ。
そこに問題かあると思う。

 
日本尊厳死協会の定義した「尊厳死」と
「尊厳ある死」とは別物だ
ということを、しつこく言ってきた。

 
「尊厳死」を選ぶことによって、「尊厳ある死」を実現できることがあることも確かだけれど、

「尊厳死」を選ぶことにより、「尊厳ある死」を実現できないこともあるし、

「尊厳死」を選ばないことにより、「尊厳ある死」を実現できることもある。

 
我々にとって大切なのは「尊厳ある死」であって「尊厳死」ではない。

 

それは、
 
「尊厳ある死」は、その人の心の問題なのに、
「延命措置」という手続により「尊厳死」を定義したから誤解しやすくなった

ということだと思う。

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