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2019年3月17日日曜日

(1539)  夏目漱石スペシャル(3-2) / 100分de名著

 
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(K0680)  レーダーで高齢者見守り <見守り>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/03/k0680.html
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第1回  4日放送/ 6日再放送

  タイトル:『三四郎』と歩行のゆくえ

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【展開】

(1)  『道草』はB級なのか?

 漱石は『道草』で「私生活」を描いています。しかし、私小説作家の赤裸々な告白とは違う。恥ずかしくて言えないようなことをあえて暴露する、という話ではない。漱石の日常は、もっと捉えどころのない恐ろしげで暗い感覚へとつながるのです。
 

(2)  「くりかえし」が表す心象風景

 登場人物の行動の「くりかえし」を読むことで、私たちは「くりかえし」特有の心地を体験します。一般には、「くりかえし」は高揚感や陶酔感に結びつきます。
 でも、『道草』では謎めいた重苦しい雰囲気。反復は「くりかえし迫ってくる嫌な過去」や「のがれようのない不快な現実」を喚起します。
 

(3)  『道草』の背景

 神経衰弱が高じて妻子と一時的に別居していた漱石。神経を鎮めるために小説でも書いてはどうかと高浜虚子に勧められ連載した『吾輩は猫である』が大きな反響を呼び、漱石の文名は飛躍的に高まります。
 そうした状況のなか、かつての養父・塩原が、人を介して、漱石に再び養子にならないかという話を持ちかけてきます。
 

(4)  『道草』と漱石の実人生

 『道草』に出てくる帽子を被らない謎の男のモデルは、漱石の養父・塩原です。小説には島田という名前で登場します。
 

(5)   鏡子夫人をあなどるな!

 かつて「漱石の奥さんは悪妻だった」とする「悪妻伝説」なるものがあったようですが、これも神経質な漱石に比しての、鏡子夫人の貫禄に対する敬意だったのかもしれません。
 『道草』でも『漱石の思い出』(鏡子夫人)でも、剣呑な夫婦仲が描かれています。しかし、書きぶり次第で印象が変わってきます。
 

(6)   漱石の「あたま」と「お腹」の関係

 「いわば胃の病気がこのあたまの病気の救いのようなものでございました」(『漱石の思い出』)
 ほとんど無限大の不安や恐怖(誇大妄想癖・強迫神経症的なこだわり)が、慢性的な胃部不快感のエピソードを通して、少しずつ、鎮められていく。
 

(7)   日常生活が「気持ち悪い」

 「水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った」
 異界が日常風景の奥底の、ぬるっとした不気味な存在として取り出されます。そんな感覚を、日常ゴシックと呼んでもいいでしょう。

 

(8)   胃病は「過去」という病

 多くの場合、胃腸の不具合は食後に訪れます。胃のむかつきが過去の自分に起因する痛み、「過去からの懲罰」という形をとることが多かったと思われます。
 漱石が恐怖の感情を描くとき、「過去からの懲罰」というイメージがくりかえし出てきます。
 

(9)   近代個人主義と「お腹の具合」

 近代個人主義の理念の土台にパブリックとプライベートの分離があった。個人の「こころ」の尊重と秘匿が、小説の起源と密接に結びついた。
 他人には見せないこころの裡に言及するときに漱石は「腹の中」という表現を頻繁に用いた。お互いに、相手のなかに隠されたなんらかの意図があることを感じながら、しかしどちらも打ち明けることがない。健三は幼少期からこうした傾向を持っていた。
 

(10)「片付かなさ」とは何か

 『道草』では「片付く」「片付かない」という語が再三使われている。例えば、「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
 片付かないことが普通になっていて、その不快感も燃料にして生きていくという感じがある。胃病のおかげで健三は不健康な健康さのなかで、片付かないがらくたのなかで一服の安定を得た。『道草』はそういう小説として読むこともできる。
 

<出典>
阿部公彦(2019/3)、夏目漱石スペシャル、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)
 

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