「永訣の朝」「オホーツク挽歌」「雪渡り」「やまなし」
~ 『100分で名著』 3月13(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
前回からの続き。今回は、内容。
(1)
唯一の理解者、妹トシとの死別( P.38 )
(2)
詩ではなく、心象のスケッチだ( P.40 )
(3)
一つであった二人の別れ~「永訣の朝」(
P.44 – P.45 )
(4)
亡くなった人に会うために~「オホーツク挽歌」( P.51 , P.52 )
(5)
子どもたちはあの世へと渡った~「雪渡り」(
P.53 – P.55 )
(6)
物語に充満する死のイメージ( P.56 ,
P.57 )
(7)
クラムボンとは何なのか~「やまなし」( P.59
)
(8)
すべての悩みを創作の栄養とする (
P.60 )
<説明>
「永遠の中に刻まれた悲しみ」
(1)
唯一の理解者、妹トシとの死別( P. 38)
「トシの死を目の当たりに見た賢治は、押入の中に頭をつっこみ号泣しました。そして、自分の膝に頭をのせ、もつれた黒髪を火箸で梳いたと言われています」
「注文の多い料理店」など数多くの創作に励んでいた1921年には、トシは病気で倒れていた。賢治の作品全般にトシの死が影響を及ぼしているだろう。
(2)
詩ではなく、心象のスケッチだ( P.40 )
「これらはみんな到底詩ではありません。…ほんの粗忽な心象のスケッチでしかありません」。賢治に詩を書いているという意識はなかった。そう考えると、読み方が変わる。
心象とは、宇宙や無限の時間につながるもので、人間の心象を描くということは、個人的なものを超えて普遍的なものをスケッチすることだと賢治は考えていた。
(3)
一つであった二人の別れ~「永訣の朝」(
P.44 – P.45 )
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
… 最愛の妹がまさに亡くなろうとしている瞬間を描いた作品である。死にゆくトシに呼びかけている
(4)
亡くなった人に会うために~「オホーツク挽歌」( P.51 , P.52 )
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでいるのかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
… 妹のことを考えてしまう。「みんなの幸いを祈る」という宗教的心境に達しえない
(5)
子どもたちはあの世へと渡った~「雪渡り」(
P.53 – P.55 )
永遠に二人でいたいという願いが込められた作品だという。
「堅雪かんこ、しみ雪しんこ」
リズミカルであり、自分たちの名前(四郎とかん子)をイメージさせるフレーズを唱えながらやってくる。常に声をそろえて互いの名前を呼び合い、「二人が一緒にいる」ということを強調している
(6)
物語に充満する死のイメージ( P.56 ,
P.57 )
「そしてラストシーン。三人の兄たちが四郎とかん子を迎えに来る場面が描かれます。迎えに来てもらってハッピーエントジ、と読む方が多いかもしれませんが、この兄たちもすでに死の世界にいる存在であるように私には読めます」…「この物語に描かれている死の世界は何もない「無」ではなく、豊饒な「無」のようにも感じられます」
(7)
クラムボンとは何なのか~「やまなし」( P.59
)
クラムボンという言葉で、読者の想像力が試される。クラムボンを蟹の子どもたちのすでに亡くなった母親と解釈することができる。一方、蟹の兄弟たちがいる川の中を羊水と読むこともできる。前者なら死の物語で、後者なら生の物語となる。賢治童話のすごいところの一つは、多様な解釈に耐えうるということである。
(8)
すべての悩みを創作の栄養とする (
P.60 )
賢治の唯一の芸術理論書と言われる「農民芸術概論綱要」において、賢治は「なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ」と述べています。すべての悩みを創作の栄養とし、またそうしたものを根源として創作に向かわなければならないというのです。芸術家とは、そもそも現実の悲しみによって試される存在なのかもしれません。
引用:
山下聖美(2017/3)、『宮沢賢治スペシャル』、100分de名著、NHKテキスト
写真:妹・トシ、春と修羅~心象スケッチ~
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