「天国への入り口は、竜安寺にある」
表現を少し変えると、実感として結構当たっていそうだ。「物が充分あると感じれば幸せな気分になり、物が不足していると感じれば不幸せな気分になる」(命題2)
よくよく考えてみると、「物が充分ある」とはどれだけ多いことを指すのか、「物が不足している」とはどれだけ少ないことを指すのか、全く定義されていない。つまり、客観的な尺度では計れない。
とするなら、主観的な尺度になる。主観的な尺度であることを丁寧に表現しようとするなら、「物が充分あれば」は、「物が充分あると感じれば」に置き換えられる。
そして、本人が幸福と感じなければ幸福とは言えないという立場に立つと、すなわち主観的幸福感を採用すると、「幸せになり」は「幸せな気分になり」に置き換えられる。
以上をまとめると、(命題1)=(命題2)であり、(命題2)は正しい。
ここから次の結論になる。(命題1)は正しい。
なんだかややこしくなってきた。簡単に一文で書こう。
「吾唯足知(我唯足るを知る)」で、人は幸せになれる。
===== 引用 はじめ
石庭で有名な京都の竜安寺に蹲踞(ツクバイ)という手水(チョウズ)があります。今でいうところの、水道とその下に置いてあるバケツのようなかんけいのものです。 … 仏教的にめちゃめちゃおしゃれなんですね。
説明しますと、円形の石の真ん中が「口」型に空いていて、そこに竹筒から水が注がれているんですね。これでも十分おしゃれなんですが、なにがおしゃれかと申しますと、この「口」の上に「五」と書かれていて、「口」の右に「隹」と書かれていて、「口」の左に「矢」と書かれていて、「口」の下に、なんとお伝えしたらいいのか分からない字が書かれているんですが、それで「足」になるんです。つまり上から時計回りに、五と口で「吾」、口と隹で「唯」、そして「足」、矢と口で「知」となり、合わせると、「吾唯足るを知る」となるんですね。現状で十分幸せだということです。
===== 引用 おわり
「吾唯足るを知り、機嫌よく!」、笑い飯哲夫のあちこち恢恢、産経新聞(2017/3/8
夕刊)
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