~ 『100分で名著』 11月21日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
(1)
一切衆生(イッサイシュジョウ)、悉有仏性(シツウブッショウ)
(2)
無仏性 (有無)
(3)
あるとき (時間)
①
一般的には、次のように解釈する
「すべての生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している」
②
道元は、文法を無視して、次のように解釈する
「一切が命あるものであり、全宇宙が仏性である」
道元によれば、
すべての存在は、仏の世界のなかで迷い、悟り、生まれて、死んでいく。
(2)
無仏性 (有無) P.66 – P.68
①
一般的には、文法の通り、
「無仏性」を「仏性が無い」と解釈する
②
道元は、そうではなく、
「無仏性」を「無の仏性」があると解釈する
道元によれば、
「無仏性」とは、仏性は未だ活性化されていない状態だが、
いずれ活性化され、悟りにいたることができる。
(3)
あるとき (時間) P.69 -
P.73
①
一般的には「或る時」を思い浮かべる
時間は、「過去→現在→未来」と流れていく
②
道元は「有る時」だという
時間は、「現在・現在・現在…」である
「過去を追うな、未来を求めるな。過去は過ぎ去ったのだ。未来はまだやって来ない。あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ」(『マッジマ・ニカーヤ』)
<各論>
(1)
一切衆生(イッサイシュジョウ)、悉有仏性(シツウブッショウ)
①
一般的には、次のように読み下す
「一切の衆生は、悉く(コトゴト)有仏性を有す」
意味は、次のようになる
「すべての生あるものは、ことごとく仏となる可能性を有している」
②
道元は、文法を無視して、次のように読み下す
「一切は衆生なり。悉有は仏性なり」
すると、意味は、次のようになる
「一切が命あるものであり、全宇宙が仏性である」
サンスクリット語に“ブッダ・ダーツ”という言葉がある。
“ダーツ”は「性」と訳されるので
“ブッダ・ダーツ”は「仏性」になる
一方、“ダーツ”は、本来的には「世界」を意味するので、
“ブッダ・ダーツ”は「仏の世界」になる
道元の解釈によれば、「全宇宙が仏性である」である。
「全宇宙」を「すべての存在」、「仏性」を「仏の世界」に置き換えると
「すべての存在は、仏の世界の中にいる」ということになる。
すべての存在は、仏の世界のなかで迷い、悟り、生まれて、死んでいく。
(2)
無仏性
①
一般的には、文法の通り、
「無仏性」を「仏性が無い」と解釈する
②
道元は、そうではなく、
「無仏性」を「無の仏性」があると解釈する
道元によれば、「無」は「活性化されていない状態」である。
仏性がないのではなく、今の時点では活性化されていないだけであって、
いずれ活性化され、悟りにいたることができる。
それが「無仏性」である。
「無線電信」では、「無線」というのだから電線はないが、でも電信は通じる。
「無線」とは「電線でない線」がある状態である。
いずれにせよ「電信」はあるのであり、
「線がある状態」か「線がない状態」かが違うだけである。
道元の「無」は、一般とは異なる解釈をしている。
(3)
あるとき (時間)
①
一般的には「或る時」を思い浮かべる
ここでは、過去としての時を見ている
「或る時、わたしは大病をしました」「或る時、わたしは会社の社長でした」
時間は、「過去→現在→未来」と流れていく
②
道元は「有る時」だという
「時」には、現在しかない。
『いはゆる有時は、時すでに有なり、有はみな時なり』
“有る時”というのは、「時(現在)」が「有(存在)」であり
「有(存在)」が「時(現在)」である。
時間は、「現在・現在・現在…」である
わたしたちには、いまここしかない。過去でも未来でもなく、その瞬間、瞬間に存在している。それを、わたしたちはつい、映画のフィルムを回したときのように連続して動いているものとして見てしまう。そうではなく、フィルムのひとコマ、ひとコマを見ればよい。
「過去を追うな、未来を求めるな。過去は過ぎ去ったものだ。未来はまだやって来ない。あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ」(『マッジマ・ニカーヤ』)
引用:
ひろさちや(2016/11)、道元『正法眼蔵』、100分de名著、NHKテキスト
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