~ 『100分で名著』 11月14日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
わたしたちは迷いの世界で生活しているのです。
しかし、わたしたちがその本質をしっかりと悟ってしまえば、
迷いはなくなります。
迷いの世界にいるわたしたちが、その迷いを
悟りによって超越しよう、克服しようなどと思わなければ、
わたしたちは迷いに迷うことはありません。
ただ、迷いがそのまま悟りだと心得て、
迷いであるからといって忌避せず、
悟りであるからといって願ってはなりません。
(2)
自力と他力
自己のすべてを仏の世界に投げ込めば、仏の方から力が働き、それに随っていけば、こちらはなんの心労もなしに仏になることができる。道元が言っていることは、いわゆる「他力本願」のように思われるかもしれません。
しかし、道元禅は「自分のやれることはやりなさい」という自力の仏教です。
(3)
諸法実相
人間が悟りを求めるのではなしに(そんなことをすれば、悟りと人間が分断されて二つにになってしましいます)、わたしたちが本来の相になりきればいい。本来の相が仏なのですから、そのときわたしたちは仏になっているのです。仏であれば、仏を知ることができます。
<各論>
(1)
生死(ショウジ)(迷い)と仏(悟り) P.35 ~ P.36
生死の中に仏あれば生死なし。又伝く
「生死」は迷い、「仏」は悟り。
わたしたちは迷いの世界で生活しているのです。
しかし、わたしたちがその本質をしっかりと悟ってしまえば、
迷いはなくなります。
また、つぎのようにも言う
生死の中に仏なければ生死にまどはず
迷いの世界にいるわたしたちが、その迷いを悟りによって超越しよう、克服しようなどと思わなければ、
わたしたちは迷いに迷うことはありません。
ただ生死すなはち涅槃とこゝろえて
生死といふべきもなく
涅槃としてねがふべきもなし
「涅槃」は悟り。
迷いであるからといって忌避せず
悟りであるからといって願ってはならない。
(2)
自力と他力 P.41 ~ P.42
わたし(ひろさちや氏)は自力と他力を説明するときに、インドのヒンドゥー教の神学で使われている「猿の道」と「猫の道」の譬え話をします。
まずは猿の道です。敵に襲われたとき、母猿は子猿を助けます。そのとき、子猿は母猿のお腹にパッとしがみつく。母猿は子猿をしがみつかせた状態で、敵から逃げていきます。これが自力です。子猿は母猿に「しがみつく」ということを自分でやっています。
対して猫の道はどうか。猫の場合は、母猫が子猫の首根っこをくわえて運んでいきます。母猫がくわえているので、子猫は母猫にしがみつく必要はありません。これが他力です。
ポイントは、猿も猫もいずれも母親によって救われるということ。つまり、自力も他力も仏の力によって救われるのです。自分一人でがんばるか他人に頼るかではなく、仏の力によって救われるなかでの自力か他力かと考えてください。仏教というものは、まず最初に仏の力の働きかけがあって、その上に自分の力を加えていくか、あるいはまったくすべてを仏の力に委ねるかのどちらかです。前者が自力で、後者が他力。道元禅は、そのなかで自分がやれることはやりなさいという自力の仏教です。
(3)
諸法実相 P.45
唯仏与仏、 乃能究尽、 諸法実相
ユイフブツヨブツ ナイノウグウジン ショホウジッソウ
<< ただ仏と仏のみ、すなわちよく諸法の実相を究尽す >>
「諸法実相」というのは、この宇宙に存在するあらゆるものの真実の相(スガタ)です。したがって、仏法と同義です。だから、次のような意味になります。
仏法(諸法実相)はただ仏だけがそれを悟ることができ、
また仏から仏にだけ伝えることができるものである。
人間が悟りを求めるのではなしに(そんなことをすれば、悟りと人間が分断されて二つになってしまいます)、わたしたちが本来の相になりきればいい。本来の相が仏なのですから、そのときわたしたちは仏になっているのです。仏であれば、仏を知ることができます。
逆に言えば、無理に悟ろうとせず、分からないなら分からないでいいのです。わたしたち凡人には仏の考えは分からない。分からないことが分からないと分かることが、分かること(悟り)だと思ってください。
引用:
ひろさちや(2016/11)、道元『正法眼蔵』、100分de名著、NHKテキスト
(写真・表も、このテキストから)
0 件のコメント:
コメントを投稿