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2016年11月6日日曜日

(683) 「心身脱落」とは何か? / 道元『正法眼蔵』(1)


~ 『100分で名著』 117() 22:25 22:50 Eテレ 放映 ~

 
(1)   正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)

正しい教え(仏教)を経典として蔵に納めたものが「正法蔵」。それを眼(智慧)で読み取れば正しく理解できる。

 
(2)   心身脱落(シンジンダツラク)

「心身脱落」は、「身も心もすべて脱落させる」「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だと考えればよい。

 自我のあることが悪いのではない。しかし、他人との対抗意識や競争意識につながると、自我のぶつかり合いで互いを傷つけ合ってしまう。

 自我を角砂糖に譬えるなら、湯の中に溶かしてしまえば、ぶつかり合いはなくなる。その湯の中というのが悟りの世界である。そこで自我が消滅したわけではない。

 
(3)   現成公案(ゲンジョウコウアン)

 「現成公案」は、『正法眼蔵』の最初の巻であり、在家信者のために自ら執筆したものである。「現成」は「いま目の前に現れ、成っている存在」、「公案」は「禅の師家が弟子を指導する際に用いる試験問題」のことである。

 「現成」が「現れる」のであれば、それは「消滅する」と対になり、「成る」といえば「崩れる」と対になる。しかし、世界は「いまあるがまま、そのままの存在」であると道元は言う。わたしたちが世界をあるがままに認識できることが、悟りである。

 

<各論>

 (1)   正法眼蔵(ショウボウゲンゾウ)

正しい教え(仏教)を経典として蔵に納めたものが「正法蔵」。それを眼(智慧)で読み取れば正しく理解できる。


 ===== 引用 はじめ  P.4 – P.5

『正法眼蔵』というタイトルの「正法」は、正しい教えという意味です。釈迦が説いた教え、つまり「仏教」そのものにほかなりません。それが経典となって「蔵」に納められている。つまり「正法蔵」です。

 … 解釈するには「智慧」が必要なわけです。

 そして、そのような「智慧」を禅者たちは“眼”と表現しました。曇りのない眼でもって対象を見たとき、わたしたちは対象を正しく捉えることができる。蔵に納められた経典も、そのような「眼」でもって読み取れば、仏の教えを正しく理解できるのです。それを「正法眼蔵」と呼びます。

===== 引用 おわり

 

(2)   心身脱落(シンジンダツラク)

「心身脱落」は、「身も心もすべて脱落させる」「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だと考えればよい。

 自我のあることが悪いのではない。しかし、他人との対抗意識や競争意識につながると、自我のぶつかり合いで互いを傷つけ合ってしまう。

 自我を角砂糖に譬えるなら、湯の中に溶かしてしまえば、ぶつかり合いはなくなる。その湯の中というのが悟りの世界である。そこで自我が消滅したわけではない。


 ===== 引用 はじめ  P.14 – P.15

 では、「心身脱落」とは、どういうことでしょうか。

 これは、文字どおりの意味でいえば、身も心もすべて脱落させること。その意味するところは、「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だと考えればよいでしょう。

 わたしたちはみな、自我を持って生活しています。そして、その自我のぶつかり合いでお互いを傷つけ合っているのです。「あなたにあんなことを言われてわたしはつらかった」と自我が傷ついたことに落胆したり、「いや、自分は悪くない、あいつが悪いのだ」と開き直って自我を修復したりする。…

 …

 わたしは、自我というものを角砂糖に譬えます。わたしと他人の接触は、角砂糖どうしのぶつかり合いです。それで角砂糖が傷つき、ボロボロに崩れます。それでも修復をはかり、自我を保っています。

 道元の心身解脱は、そんな修復なんかせず、角砂糖を湯の中に放り込めばいいじゃないか、というアドヴァイスです。わたしたちは、いつも角ばった砂糖の状態を保とうとしている。でも、それを湯の中に入れてごらん、というわけです。

 湯の中というのは、悟りの世界です。真理の世界、宇宙そのもの、と言ってもよいでしょう。わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが「心身脱落」です。

 でも、心身脱落は自己の消滅ではありません。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖は消滅したわけではないのです。ただ角砂糖という状態がなくなっただけで、全量は変わっていません。…

===== 引用 おわり


 
(3)   現成公案(ゲンジョウコウアン)

 「現成公案」は、『正法眼蔵』の最初の巻であり、在家信者のために自ら執筆したものである。「現成」は「いま目の前に現れ、成っている存在」、「公案」は「禅の師家が弟子を指導する際に用いる試験問題」のことである。

 「現成」が「現れる」のであれば、それは「消滅する」と対になり、「成る」といえば「崩れる」と対になる。しかし、世界は「いまあるがまま、そのままの存在」であると道元は言う。わたしたちが世界をあるがままに認識できることが、悟りである。

 
===== 引用 はじめ  P. 19,  P.21

 道元が『正法眼蔵』の最初の巻である「現成公案」を執筆したのは、…

 「現成公案」は、道元が九州に住む在家信者のために自ら執筆したものです。しかし…、(『正法眼蔵』の)ほとんどの巻は「示衆」のために書かれています。「示衆」とは衆(出家修行者)に示すため、つまり説法のために書かれたものということです。

 …

 「現成」という語は、「いま目の前に現れ、成っている存在」を意味します。「公案」とは、禅の師家が弟子を指導する際に用いる試験問題のことです。 … 

 では、われわれは世界をどう理解すべきでしょうか? 普通、「現成」が「現れる」のであれば、それは「消滅する」と対になり、「成る」といえば「崩れる」と対になります。でも道元によれば、そのような対でもって考えてはいけないのであって、世界はいまあるがまま、そのままの存在です。わたしたちが世界をあるがままに認識できたとき、わたしたちは仏教者になれたのであり、それがすなわち悟りなのだ、と道元は言っています。道元の哲学の根本がここにあります。

===== 引用 おわり

 

引用:

ひろさちや(2016/11)、道元『正法眼蔵』、100de名著、NHKテキスト
(写真も、テキストから)

  

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