今回の書き込みは、(639)(640)の続き。
【出演】東京大学大学院教授…丸井浩,【きき手】草柳隆三
9月18日放映済み。 より
対立的なものを乗り越える
(1)
中道(どちらかに偏らない、いずれでもない)
(2)
無記(沈黙の態度)
(3)
ウペクシャー(無関心。こだわらない見方)
西欧的なアプローチとは、まるで違う。
西欧的なアプローチでは、各々が正しいと思うことを述べ、議論して、合意していく。このアプローチは正しいと思うが、限界がある。文化、宗教が異なれば、「正しいと思うこと」が、そもそも違う。
価値観を共有するキリスト教徒の中では有効な手段でも、違う宗教と対峙するとき通用しない手段なのだけれど、それをゴリ押しする。そのことから起こっている戦争が、今でもたくさんあるのではないか。
===== 引用 はじめ
欲望を中心にすると、必ず、好ましい物、自分にとって好ましい物、好ましくない物という二元対立を起こしていく。これは誤った考えだと、仏教は絶えず主張してきた。
いずれでもない心のとらえ方を、心のなかにつくりだしていく。そういうことは、対立を起こさない生き方、生き方の根底としての見方、これが仏教の素晴らしい点だ。これはなかなか、他の思想の中には見られない。
===== 引用 おわり
自分にとって好ましい物、といったことを放棄すると、自分がなくなってしまうのではないか。それで諍いがなくなっても、あまり意味がないのではないかと気になる。
===== 引用 はじめ
それをまあ、中道と言うか、調和的見方、どちらにも偏らない見方という。結局は、他者に対する態度、自分を見つめることで、自己の中の矛盾的なものを見つめることが、結局、他者に対する見方に変わっていくんじゃないか
===== 引用 おわり
自分の中にある矛盾を否定することなく、しっかり全部を抱え込んでいく。その延長線上で他者との矛盾も見つめる。自分を見つめているので、自分を見失うどころか、理解が深まっていく。他者との矛盾を「他人事」ではなく、自分とのかかわりの中で見つめていく。自分は、しつかりある。
===== 引用 はじめ
つまり、善悪、善人とか悪人とかいうふうに、自分は善だと驕り高ぶってはいけないというのが仏教の見方。そうなってくると他者を見るときも、あの人は善人だ、あの人は悪人だと、単純にそのような形で切り分けない、誰しもが善悪の両面をかかえつつ、それをいかに乗り越えていくのかという、我々一人ひとりの有り方だということで、そういう、まあ、対立をいかに乗り越えていくかというと、思想的な営みとして、仏教ですね、ブッダの教えというものに、興味深いものがある。
===== 引用 おわり
アメリカ映画では、善と悪とがはっきりしていて、最後は善が勝つパターンが多い。観客は、自分自身を善において、悪を倒すイメージで見ているのだろう。本質は、強い者が勝つ。だから、善は強くなくてはいけない。
日本のサスペンスドラマを見ていると、悪人も出てくるのだが、その悪人には悪人の事情、想いがあり、全否定しにくいものが多い。
善も悪もひっくるめて全部を救い上げるというのが仏教の考え方がだと思うが、それが多くの日本人の基盤にもなっているのではないか。
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