第155回芥川賞受賞作『コンビニ人間』(村田紗耶香)の紹介。一回目の切り口は「音で綴られた小説」、二回目は「今のままの私ではいけない、という思い」であった。今回は「登場人物」という観点から読む。
登場人物としては、「あちら側」と「こちら側」(=普通・常識的)の二種類が登場する。主人公(古倉)と白羽が「あちら側」で、残りが「こちら側」である。この小説は、いくつかの特徴がある。
(1)
「あちら側」の人が主人公で、その視点から描かれている
→ 通常は「こちら側」の視点から書かれるので、この小説の視点は新鮮である
(2)
「あちら側」が二人いて、その二人が絡み合って、不思議な世界をくり広げる
→ 「あちら側」と「こちら側」が絡みながら、普通の小説は進む。しかし、この小説は、「あちら側」の二人が絡みながら、さらにそれが「こちら側」に絡みながら、小説が進むので、ダイナミックな話になっている
(3)
主人公は、「こちら側」からも、もう一人の「あちら側」からも、無礼なことを言いたいように言われるが、怒りを覚えていない
→ これが、この小説の救いになっている
以上の視点で小説を見直すと、一回目、二回目とは異なった形に再構成される。
(1)
「あちら側」の人が主人公で、その視点から描かれている
幼稚園のころ、「あちら側」の主人公は、①公園で死んでいた小鳥を焼き鳥にして食べようとし、②取っ組み合いしている男子の頭をスコップで殴って喧嘩を止め、③ヒステリーになっている女の先生に走り寄ってスカートとパンツを勢いよく下して静かにさせた。それに対して周囲の大人は理解してくれない。
通常の小説では、「こちらの側」の人が「この異常な出来事」目撃し、不思議に思いその理由を知りたがる。
しかしこの小説では、「あちら側」の人が「この当たり前の事」をするのだが、周囲の人が何故か(説明しても)理解しないので、不思議に思いその理由を知りたがる。
同じ出来事でも、違う立場から見ると異なるように見える。読者は「あちら側」からの説明を先に聞くので、普通なら変に思うことでも、なんとなく納得してしまうという、風変わりな体験をする。
ところで、「あちら側」の人にとっては、何が普通なのかが分かりにくい。コンビニにはマニュアルが整備されているので、「あちらの側」の人でも、普通になりやすい。
また、「あちら側」の人である主人公は、感情の処理(発生した感情の処理ではなく、そもそも感情が起こってこないことに対する処理)が苦手であるが、工夫して乗り越えている。例えば、
二人が感情豊かに会話しているのを聞いていると、少し焦りが生まれる。私の身体の中に、怒りという感情はほとんどない。人が減って困ったなあと思うだけだ。私は菅原さんの表情を盗み見て、トレーニングのときにそうしたように、顔の同じ場所の筋肉を動かして喋ってみた(P.420 - P.421)
「あちら側」の人でありながら、「こちら側」で工夫して生きてきた。
店を辞めさせられた白羽さんの姿が浮かぶ。次は私の番なのだろうか。正常な世界はとても強引だから、異物は静かに削除される。まっとうでない人間は処理されていく。そうか、だから治らなくてはならないんだ。(P.445)
「あちら側」の人間は異物である。「恋愛経験・肉体関係がない」「結婚しない」「就職せずいつまでもアルバイト」という点で、「あちら側」の人間は異物と見なされる。
そこで「あちら側」の主人公と白羽は、「恋愛経験・肉体関係がない」「結婚しない」とは見えないように、同居生活を始めた。また、「就職せずいつまでもアルバイト」を解消すべく、主人公はコンビニを辞め、就職活動を始める。しかし、その過程で、主人公はコンビニ店員に戻ろうと決意し、同居生活も解消することになった
(3)
主人公は、「こちら側」からも、もう一人の「あちら側」からも、無礼なことを言いたいように言われるが、怒りを覚えていない
主人公が怒り出しても不思議でない発言が随所に出てくるが、主人公は怒らない。深刻なテーマを扱っているこの小説に、救いをもたらしている。胸の痛みを感じさせることなく、笑いを誘う作品に仕上がったのは、このキャラクタ設定(怒らない)のおかげだろう。
村田紗耶香、「コンビニ人間」、文芸春秋(第94巻 第13号)、2016/9
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