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2016年9月11日日曜日

(627) 近代の闇、彼方の光源 / 石牟礼道子『苦海浄土』(2-1) (9月12日(月) 22:25 – 2250 Eテレ 放映)


 書いてあることをかき集めて私の言葉に置き換えると、次のようになる。

 
「 人は心でつながると、人間になる。

  人間が群がると、人であることを見失う」

 

===== 引用 はじめ  P.27 (第1回)

 次に引くのは水俣病を背負って生きている子供たちが検診のためにバスに乗って外出する場面の一節です。

 そして、この青年が力を入れて、バタンと扉をしめると、バスの中に、微妙な変化が、外の風景の中にいたときの、不安げな様子とはちがう変化が起きるのを私はいつも感じていた。それはおおかた、口のきけない子どもたちのあげる、かすかな声や、なめらかにほぐされてくる大人たちの会話であった。十歳前後になった子どもたちは、母親や祖父の腕の中で、たいがい首を仰向けにがくんと背中の方にたれて、バスの外の景色を感じていた。(第一章「椿の海」)

===== 引用 おわり

 
===== 引用 はじめ  P.45

 … 石牟礼は、第1回で引用した、水俣病の子どもたち乗せたバスの運転手・大塚青年のふるまいをめぐって、この男性は、はっきりと優しさを表すことができない一方で、「同じ故郷を持つもの同士への本能的な連帯心」があると書いています。…

 他者が傷つくのを見ると自分の心も痛む。これが本能的な連帯心です。水俣病という未曽有の問題に立ち向かうとき、近代的な理性に基づく「義務感」による連帯ではなく、本能による連帯をよみがえらせなくてはならないというのです。

===== 引用 おわり

 
===== 引用 はじめ  P.48

 彼女は詩を一人での闘いだと述べ、更に今も闘っている、という。ここで考えてみたいのは「ひとり」であることの意味です。

 力と量によってのみ価値をはかろうとする「近代産業」の暗部に生まれた、命名し難い化け物に立ち向かうには、人はひとりにならなければならないと石牟礼は感じている。化け物は、群衆によってつくられた。群れと闘い得るのは、もう一つの群れではなく、個である、という確信がここにある。

 人は、群れた途端に見えなくなるものがあります。だが、ひとりでいるときには、はっきりと見える。石牟礼はそのことに気づき、一人で闘った。

 …

 水俣の運動で人々は、集うことはあっても群れません。それぞれの志、それぞれの立場を持って集うけれど、けっして群れない。…

===== 引用 おわり

 
===== 引用 はじめ  P.64

 水俣病に苦しんだ人とその家族たちが求めていることは、心を通わせて生きていくことだと石牟礼は語る。しかし、世間は、結局のところ金銭の問題ではないのかという。近代産業におかされた世界ではすべての問題は金銭に帰着すると考えるようになってしまった。いつの日からか人は、心と心を通わせるという素朴なこともできなくなってしまったのか。ここでの「心」は、魂と言ってもよい。人は心でつながるとき、他者に起こった出来事もわが事として考え始める。

===== 引用 おわり

 

 今回のタイトルを「近代の闇、彼方の光源」としたのは、テキストの第2回のタイトルがそうだからである。しかし、読み進んで見えるものは「近代の闇」ばかりで、「彼方の光源」は見えてこない。それでも読み進む。

 闇に真正面から向き合う時間も、人には必要ではないか。いつもとは言わない。

 
引用
若松英輔(2016/9)、石牟礼道子『苦海浄土』、100de名著、NHKテキスト

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