最近、「人権」という言葉を聞いて、
落ち着けないことがよくある。
何かが変なのだが、
どう変なのかを説明できない。
以下の文を読んで、
なるほどそういうことだったのか、
と思った。
===== 引用 はじめ P.45 ~ P.46
他者が傷付くのを見ると自分の心も痛む。これが本能的な連帯心です。水俣病という未曽有の問題に立ち向かうとき、近代的な理性に基づく「義務感」による連帯ではなく、本能による連帯をよみがえらせなくてはならないというのです。
===== 引用 おわり
注 (*) 水俣病の被害者
そこに人の心がないのだと思う。
人の喜び、哀しみ、悔しさ、怒り、
そういうものがスッコリ抜けて、
「理性的に」「人権」という言葉を使っているのだろう。
特に政治的な色彩を帯びた議論において、
相手への敬意がまるでなく、論争の武器として
声高に「人権」という言葉が使われる時、
「落ち着けない」のだろう。
「人」が抜け落ち、「権」だけが残っている。
これは「人権」とは呼ばない。
「人権」を守らねばならない。
外からの「人権」への侵攻を、防がねばならず、
内からの「人権」の破壊も、防がねばならない。
引用
若松英輔(2016/9)、石牟礼道子『苦海浄土』、100分de名著、NHKテキスト
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