何故、苦しんでまで比較しようとするのか
(1)
比較の圧力がかかる。偏差値や業績査定、等々(これらは比較を含んでいる)
(2)
他人にどうみられているかが気になる(他人が比較しているか否かは不明)
(3)
他人との比較で、自分を確かめようとする
前回ここまで書いた。
思いついたことを書き並べており、他にもあるかも知れない。
実際には、色々な事情で「比較」しているだろう。
これだけで解決できないケースも、多々あると思う。
機会があれば、考察を追加していきたい。
とりあえず、列挙したものについて、一つずつ、考察を進める。
(1)
比較の圧力がかかる。偏差値や業績査定、等々(これらは比較を含んでいる)
他から発するものであり、比較そのものはコントロールできない。
給料をあげてもらいたい、出世したい。業績査定が気になるのは当然である。
偏差値も業績査定も気にならないと言うなら、むしろ大丈夫かなと心配になる。
ただ、偏差値や業績査定をあげようとしたりすると、苦しくなる。
しっかり勉強すれば、結果として偏差値は上がってくることを期待できる。
しっかり仕事をすれば、結果として業績査定が上がってくることを期待できる。
勉強したり仕事をしたりすることは、自分でコントロールできる。
偏差値や業績査定は、自分でコントロールできない部分がある。
コントロールできないところで動くと、大きなストレスを受けることは知られている。
(コントロールできる)勉強や仕事の専念できれば、良い成果も期待できる。
悶々と悩んでいるより、気分もすっきりする。
(2)
他人にどうみられているかが気になる(他人が比較しているか否かは不明)
社会生活を営む限り、「他人にどうみられているかが気になる」は、健全な反応である。これが欠如すると、社会生活がおぼつかなくなる。しかし、度が過ぎると、困ったことが起こってしまう。
「気になる」というのは、自動反応であり、コントロールできない。
観察によれば、
他人を比較する人は、自分が比較されることに敏感である。
他人を比較しない人は、自分が比較されることに鈍感である。
自分が他人を比較するかどうかは、コントロールできる。ここを変えると、結果として、(コントロール困難と思われる)「他人にどうみられているかが気になる」を緩和することが可能であろう。
(3)
他人との比較で、自分を確かめようとする
生き方の根源にかかわる、大切なところである。
自分自身の存在に揺らぎのない人は、「他人との比較で、自分を確かめる」ことはしない。いわゆる「あるがままの私」を感じている人である。
「いまの私のままではいけない」と感じている人は、他人と比較し、自分を確かめようとする。
では、「あるがままの私」「揺るがない自分」になるために、どうすれば良いのか。
これに簡単に回答できるなら、多くの問題は簡単に解決できる。
回答になっていないと思うが、自分でしていることを一つだけ書く。
自分でできることは、すべてやりつくすことである。「もうこれ以上無理」という境地になったときに残っているのは「揺るがない自分」だと思う。何故なら、これ以上揺るぎようがないからである。
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