最近「耳の聞こえない人には、察しの悪い人が多い」と聞いた。真偽のほどは、私には分からないが、説明はつく。
「formal発言」と「in-formal発言」に分けてみる。「要約版の議事録」をつくるときに書かれるのが「formal発言」、書かれないのが「in-formal発言」である。ざわつきとか、不規則発言のことである。これらは「formal発言」に含まれないことが多い。
耳の悪い人が伝えられるのは「formal発言」であり、「in-formal発言」は伝えられないだろう。察するには、この「in-formal発言」が重要な役割を果たす。
なぜなら、「formal発言」のみを組み立てて結論が出るなら、それは「察した」とは言えない。もちろん「行間を読む」ことができる人は、できない人より「formal発言」から得られる情報が多いので、「察しがよい」であろう。これは、ここでは、とりあえず、例外事項としておこう。
ちょっと乱暴ではあるが、「『察する』とは、『formal発言』のみからではなく、『in-formal発言』も含めて判断することである」と定義してみよう。
そうすると、冒頭に掲げた「耳の聞こえない人には、察しの悪い人が多い」という現象を容易に説明できる。
「察する」を普通の辞書(デジタル大辞泉)で調べると、
「1.物事の事情などをおしはかってそれと知る。推察する」
「2 他人の気持ちをおしはかって同情する。おもいやる」
「3
深く調べる」となる。
「おしはかる」は、「類似の事実を当てはめてみて、見当をつける。推測する。推量する」となる。
要するに、普通の辞書は、原則として置き換えであり、調べていくと、脇にそれながら、グルグル回る。一方、私の定義は、「何故そうなるのか」といった原理を含んでいる。
「察する」という言葉を限定的に定義してしまうという弊害があるが、一方、気付きがあり、発展性がある。
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