「五輪の書」は、「地(チ)の巻」「水(スイ)の巻」「火(カ)の巻」「風(フウ)の巻」「空(クウ)の巻」からなっている。
===== 引用はじめ
第4回では、「風の巻」と「空の巻」の内容を扱います。「風の巻」は、他流剣術の誤りについて考えることで、確かなものを浮かび上がらせています。その上で武蔵は、自らの術理が現実にいついかなる場でも通用するか、絶えず大きなところ - 「空」から見ていました。迷いなく、自らの感覚を磨いて、鍛錬を徹底していけば、やがて自在な境地に開かれる。それが「空の巻」の目指すところです。
===== 引用おわり
真剣勝負は、いかに素晴らしい術理を整備しても、たった一人の例外的な人と戦って、あるいは例外的な状況(足場の悪いところ、竹林の中、暗闇の中、多数が相手、特殊な武器をもっている相手、等々)でも、一回でも負ければ命を落とし、すべては終わってしまう。「自らの術理が現実にいついかなる場でも通用するか」の重みを感じる。
ほとんどの剣術指南は、経営として行っているのではないだろうか。経営である限り、弟子を集め、金を集めねば成り立たない。そのため「弟子受け」することが絶対条件になる。継続的にお金を落としてもらうための仕組みも必要である。
一方、武蔵は大名に「客分」としてかかえられているので生活の心配はない。養子も立派に成長し、自立している。これ以上金儲けをする必要もなければ、名誉欲もないだろう。
現在、世の中でたくさんの講演やセミナーが経営の一環として開かれている。主催者や講師としては生活がかかっているので、儲けるために働きかけるのは当然なことだし、生き残るセミナーは、受講者の支持を得ているので、何ら問題はない。
ただし、「経営としての講演やセミナー」としての限界・制約は必ずあり、そこは意識して受講しないと間違えてしまう可能性がある。
これは、セミナーの開催者や講師の課題なく、受け手の課題である。
「太刀の長さにこだわる」「太刀を強く、速く遣う」「太刀遣いの形や構えを多くする」「目付や足遣いなど、特殊なからだの使い方をする」。武蔵は、他流批判を展開している。
ある特定の相手、ある特定の場面では勝てるだろうが、その前提が崩れると、負けてしまう。それを武蔵は、剣術とは認めない。
「他流」でやっていることは、講演やセミナーを特徴づけるために役立つ。形や構えを多くすることは「受講者を段階的にステップアップさせる」プログラムを作るために必要なことだ。批判されているが、経営としては合理的なアプローチだと思う。
「自らの術理が現実にいついかなる場でも通用するか」という、とんでもない難題をクリアーするのが、「空の巻」に書かれていると思う。「思う」という弱々しい言葉を使うのは、私がよく理解できていないからである。いや「理解」という言葉が、そもそもおかしいだろう。「理解した・しない」のレベルの話ではない。
「地(チ)の巻」「水(スイ)の巻」「火(カ)の巻」「風(フウ)の巻」を実践で習得することを積み上げて、最終的に「空の巻」の境地に至る。
===== 引用はじめ
地・水・火・風の四巻は、兵法の道を、箇条に分けて具体的に詳しく論じていました。これらは具体的に「ある所」のものです。一方、「空」は、それらの「ある所」の兵法の道を実際に行っていくことを通して初めて知られる「なき所」のものである、と武蔵は言います。
===== 引用おわり
6月の「100分de名著」は、ルソー『エミール』
~ どんな人間が、幸福な社会をつくるのか? ~
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