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(K1280) 「ひとりの時間」は、孤独の時間ではなく至福の時間(2) <仕上げ期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/10/k12802.html
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がむしゃらにならないということは、言い換えれば、自分が解明できないことや叶わぬことに耐えることなのです。それこそがみやびではないか。未知のものを謙虚に畏れ、突き詰めていかない態度やふるまいです
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【テキストの項目】
(1) 『伊勢物語』の成立背景
(2) 才学はないが和歌の名人
(3) むかし、男、初冠して
(4) 都落ちの哀しみを詠う
(5) 思いを自然に託して
(6) 込められた二重の願い
(7) なぜ良き歌人になれたのか
(8) 解らないことに耐える力が「みやび」
【展開】
(1) 『伊勢物語』の成立背景
(2) 才学はないが和歌の名人
(3) むかし、男、初冠して
(4) 都落ちの哀しみを詠う
以上は、既に書きました。
(5) 思いを自然に託して
業平には自分の感情と自然の情景とを結び付けて、鮮やかに、あるいは面白く詠った歌が数多くあります。例えば第ニ段の、
起きもせず寝もせで夜を明かしては
春のものとてながめ暮らしつ
が典型的です。この歌は、「西の京の女」という年上の女性を訪ねたあと、業平がその人に贈ったものです。
《昨夜わたしはあなたの傍で、起きているのか寝ているのか判らぬまま朝を迎えてしまいました。そぼ降る雨のせいでしようか、それともあなたが春の雨のようにわたしの中に入ってこられて、起きることも寝ることも叶わぬ甘い酔いで縛ってしまわれたのか。いまあなたから離れてもあの雨は、こうして空から、いえわたしの身内でも、降り続いております。春の雨とはこのように長く、いつまでも終わりのないものとは知っていましたが、切ないものですね。》
(6) 込められた二重の願い
行く螢雲の上までいぬべくは
秋風吹くと雁に告げこせ
《上っていく螢よ、雲の上まで飛び行くのですか。もし雲の上にまで行くことができるならば、この世ではもう秋の風が吹いています、どうぞ戻って来られますようにと、雁に伝えてください。》
空を飛ぶ島は、一般的に死者の魂とつながると思われていました。ここで歌われている雁も、生きている者の思いを死者に伝えることかできる鳥でした。 … 涼風が吹き、螢が目の前で急浮上します。死者の魂が天へと昇っていくように見えたことでしよう。その螢に、もし雲の上まで行くのならこの思いを雁に伝えて欲しい、雁はそれを死者の魂に伝えて欲しい、と二重の願いを歌にしたわけです。
(7) なぜ良き歌人になれたのか
世の中では、在原業平といえば「稀代のプレイボーイ」というイメージが定着しているように思います。しかし『伊勢物語』を通して見えてくるのは、「恋の人」、である前に「歌の人」である業平です。
業平はなぜ良き歌人になれたのでしょうか。大きく三つの理由があったと私は思います。
第一に、彼が多情多感な男だったということです。
第二に、漢詩が苦手だったことです。
第三に、彼がみやびときは何かを知っていたことです。
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第一に、彼が多情多感な男だったということです。
多情多感とは、感性の触手をたくさん持っているということです。さまざまな情動をキャッチするアンテナをいっぱい出している、と言っていいかもしれません。そのアンテナで業平がつかんだのは、女であり、自然であり、言葉であり、美しさであり、悲しさです。
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第二に、漢詩が苦手だったことです。
漢詩が苦手だった業平は、当時の男たちから見下されていました。しかし、今日でも広く親しまれているのは業平が得意とした和歌の方です。なぜ業平の歌が、同時代につくられた漢詩より、今なおわれわれの心を打つのでしようか。これは深いテーマです。深くて本質的な問題です。
ひとつ理由を挙げるとすれば、和歌が日本人の身体が持つリズム感に裏付けられた文芸だからだと思います。 … 仮名文字の一つ一つには意味がなく、和歌は声として流れ出る情感の言葉です。歌う、という日本人の身体感覚に適っているのです。
・ 漢字 = 男の理 = 頭脳
・ 仮名 = 女の情 = 身体
大雑把にくくれば、このようになると思います。そう考えると業平は、男でありながら女の文芸、いやそこから始まる日本人の日本人による文芸の礎になったと言えます。また、和歌に優れた業平が女のことが良く解る男であり、結果として女にモテたことも、先の図式を踏まえると納得が行きます。
(8) 解らないことに耐える力が「みやび」
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第三に、彼がみやびときは何かを知っていたことです。
みやびとは何か。これは単に、華やかであるとか、高貴な人たちが身に付けていたふるまいを指す言葉ではありません。みやびの本質とは、解らないことは解らないものとして残しておく、という余裕ある態度のことだと私は思います。
業平の場合、人間が解り得ないことと並び、叶わぬことに対する態度も同じでした。何が何でも自分の思いを叶えようとするのではなく、叶わぬことは叶わぬこととして置いておき、そこから生まれる思いをエネルギーにして歌を詠むのです。あなたへの恋が叶わない。だから哀しい。都に残してきた妻は元気でいるかどうか解らない。だから哀しい。まさにその哀しみを歌にしたのか業平です。叶わぬことの哀しみを詠った歌は、切実であるがゆえに人々の心を打ちました。
人間にはいつの時代にも解らないことがある。叶わないことだってある。それを謙虚に受け止め、その事実に耐え、その中で最善のことをする。そんなふるまい方を知る。不安が不安を呼ぶ現代、業平の物語を読む意味があるとすれば、実はそれが一番大きいかもしれません。
<出典>
髙木のぶ子(2020/11)、『伊勢物語』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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