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(K1256) 介護予防教室「人生カッコよくプロジェクト」(成田市) <認知症>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/10/k1256.html
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青木のゴルフには致命的な問題があった。手首が強く、若さにまかせて飛ばそうとすると大きく左に曲がる。相次いで大魚を逃した。長年親しんだ球筋を変えるのは簡単ではない。下手をすると選手生命まで失いかねない
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1980年6月15日、ニュージャージー州スプリングフィールドのバルタスロールゴクラブは異常な雰囲気に包まれていた。全米オープン最終日、首位を行く〈帝王〉ジャック・ニクラウスに一人の日本人ゴルファーがぴたりと付いて離れない。青木功であった。
青木は何を考えてプレーしていたのであろうか。
―― 「ジャック・イズ・バック。ジャック・イズ・バックってうるさいんだよ。青木だって来ているじゃないか」。最初はそういう感じだった。しかし、途中から「ジャック・イズ・バック」というのが「アオキガンバレ、アオキガンバレ」という風に聞こえるようになった。気持ちの上で吹っ切れているから「うるさいなあ。ジャック、ジャック言わず、たまにはアオキと言ってみろよ」と楽しむ感じだった。
… 2パットでも優勝なのに、ニクラウスが3メートルくらいのバーデイバットを全神経を集中して入れた。4度目の全米オープン制覇である。ギャラリーが大歓声をあげながら、なだれ込まんばかりに押し寄せてきた。場内整備員が制止したが止めようがない。まだ私の1メートル前後のパットが残っている。そのときニクラウスは、押し寄せ、グリーンになだれ込む群衆に対して両手をパッと高くあげてギャラリーを押しとどめた。
自分もこの混乱の中で、最後の1メートルのパットを外しても2位であることに変わりはないが、外したら王者ジャックのゴルフに傷がつくと思い、しっかりと決めた。その瞬間、私も勝ったような胸を揺るがす感動があった。それから、40歳の限界説を乗り越えたニクラウスの2年ぶりの勝利に、本当の祝福の嵐が巻き起こった。
まさにドラマだった。緊迫感に包まれた4日間。世界のひのき舞台で帝王ニクラウスと回り、完全に自分を出し切れたという高揚感だろう――
青木功(1942~)
千葉県生まれ。中学卒業後キャディとなり腕を磨く。1978年から4年連続賞金王。尾崎将司・中嶋常幸とともにAON時代を築いた。1980年6月、全米オープンにおける〈帝王〉ジャック・ニクラウスとの優勝争いで世界の舞台へ躍り出た。通算51勝。
<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)
写真は、
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