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2020年5月27日水曜日

(1982)  正力松太郎とマスメディア - 新聞そしてテレビ / あの頃日本人は輝いていた(5)


◆ 最新投稿情報
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http://kagayakiken.blogspot.com/2020/05/2-3-1-2-1-2-3-39-20200522-httpshc.html
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四高から東大法学部に進んだ正力。高等文官試験に合格し、警視庁に入り堀留、神楽坂の署長をへて監察官、官房主事、刑務部長…と着実に出世街道を歩んでいった。思わぬ事件が正力を別の世界に向かわせることになる
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 「虎ノ門事件」で懲戒免官となった正力松太郎(警備の責任者だった)のもとに読売新聞の経営を引き受けないかとの話が持ち込まれた。関東大震災によって新社屋を失った読売の経営は破綻寸前だった。官界にいて新聞の影響力を熟知していた正力は、引き受けることにした。

(1)  後藤新平から10万円を借金した
(2)  読売新聞にラジオ版を創設した
(3)  囲碁の対抗戦を企画し、棋譜とともに魅力的な観戦記で誌面を飾った
(4)  満州事変を機に、夕刊発行に踏み切った
(5)  ベーブ・ルースを招いた。東京ジャイアンツが生まれ、プロ野球誕生につながった
(6)  テレビ事業に乗り出した。予備免許第一号は日本テレビが獲得した
(7)  後楽園球場の巨人戦とプロレスを街頭テレビで無料配信した

【展開】

(1)  後藤新平から10万円を借金した
 かつての上司後藤新平に借金を申し込んだ。後藤は自分土地を担保にして10万円を工面してくれた。当時の10万円は現在の10億円にも相当する。

(2)  読売新聞にラジオ版を創設した
 日本放送協会によってラジオの発放送がおこなわれた。新聞にとって「敵」だったラジオとの協力は考えられなかったが、番組の紹介を含む読売のラジオ欄は読者に歓迎され、部数が伸びた。

(3)  囲碁の対抗戦を企画し、棋譜とともに魅力的な観戦記で誌面を飾った
 囲碁界は分裂していた。名人本因坊秀哉の日本棋院と雁金純一七段率いる棋正社の対抗戦を企画し実現した。観戦記は、囲碁好きの河東碧梧桐、松村梢風、菊池寛など。

(4)  満州事変を機に、夕刊発行に踏み切った
 満州における軍事行動は、前線の兵士の活躍のみならず、「銃後で支える国民」など写真と記事、軍国美談で誌面を埋める材料に事欠かなかった。夕刊を発行し、全国紙に邁進した。

(5)  ベーブ・ルースを招いた。東京ジャイアンツが生まれ、プロ野球誕生につながった
 朝日新聞・毎日新聞は、夏・春の高校野球を仕切った。人気絶頂のペーブ・ルースを招き、全日本軍(後の東京ジャイアンツ)が戦った。後に、日本のプロ野球が誕生した。

(6)  テレビ事業に乗り出した。予備免許第一号は日本テレビが獲得した
 日本でのテレビ放送が発案されたのは昭和22年、日本テレビが放映を始めたのが昭和28年。NHKと日本テレビとの間で熾烈な競争など様々な困難を乗り越え、民間放送が認められた。

(7)  後楽園球場の巨人戦とプロレスを街頭テレビで無料配信した
 テレビは台数ではない。テレビを見る人が多いか少ないかだと、正力は考えた。力道山が空手チョップをくりだして外国人レスラーを叩きのめす。街頭テレビの前は人であふれた。視聴者が多ければ、広告のスポンサーもつく。


正力松太郎(18851969
 読売新聞社社主、日本テレビ社長、衆議院議員、日本野球連盟会長。
 富山県生まれ。東大卒業後、内閣統計局を経て警視庁に入るが、虎ノ門事件の責任を負い退官。読売新聞の経営に携わり徹底的な大衆化により部数を飛躍的に伸ばした。戦後初のTV放送予備免許を受けて日本テレビを創立。プロ野球の振興にも尽力した。

写真は、
https://www.pinterest.jp/pin/361062095115639357/

<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

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