===== 引用はじめ
現代人は、自分の苦悩に合った宗教情報を集めるというような態度で宗教に接していますが、それは宗教情報の消費でしかありません。情報である以上は、新しいものが古い物を追いやり、更新され、また消費されていきます。ですからヘタをすれば、次から次へと情報を求めて迷うばかりで生き方を定められないといった、本来の宗教の役割と正反対のことが起きてしまいます。
===== 引用おわり
釈徹宗(2016/4)、「歎異抄」、100分de名著、NHKテキスト、P.82
===== 引用はじめ
その両者(勢観房、念仏房=源智)の前で、後輩の親鸞が「自分の信心も法然さまの信心も一緒である」と、並み居る優秀な兄弟子たちに向かって言い放ったのです。源智たちは気色ばんだことでしょう。「そんなバカなことがあるか」と反論します。そのときの親鸞の言い分は、「智慧や学識で信心が決まるのであれば、もちろん私は法然さまの足元にも及ばない。しかし仏様よりいただく信心なのだから同じ一つのものである」となります。それでも納得できない源智たちが法然に直接尋ねます。すると法然は、自分の信心も親鸞の信心も「如来よりたまわりたる信心」であって変わりはない、と親鸞を支持しました。
===== 引用おわり
同上、P.75
私が私の頭で考えることにこだわる限り、私はどこにも所属しない。また、私は親鸞のようにはなれない。それでも、考える対象が宇宙の真理の一片であるなら、私はその一片を通じて宇宙と連なり、決して孤立してはいない。
ところで、宗教情報ではいけないとあったが、では何か。
===== 引用はじめ
では、「救い」に直結するものとは何かといえば、大きな意味での「物語」だと思います。私の人生もひとつの物語であり、宗教の体系もある意味では物語です。来世の問題も、壮大な生命の物語です。物語というのは、情報と違って一度出逢ってしまうと、出逢わなかった以前にはもう戻れない - という性格を持っています。
===== 引用おわり
同上、P.83
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