『歎異抄』の書名は、「異議を歎く(ナゲク)」というところからきています。親鸞が亡くなった後に、師の教えとは異なる解釈(異議)が広まったことを歎いた弟子の唯円が、親鸞の真意を伝えようと筆を執って完成させたのがこの書物です(P.5)。
前半の第1条から第10条が、親鸞の教えや語録をまとめた「語録(師訓)編」で、後半の第11条から第18条が、「歎異抄」の本体ともいえる「歎異(異議)編」-すなわち、親鸞の教えを自分勝手に解釈する向きを歎き、正しい理解を解く、唯円の「解釈」となります(P.11)。
自力(阿弥陀仏に救いを求めながらも、善い行いをして功徳を積む)に対し、他力(阿弥陀仏の本願)によって救われる(P.11)とのことだが、「他力」はなんとも分かりにくい。誤った理解をしてしまいやすい。
「他力」とは何かを説明しているのが前半で、「これは本当の他力ではない」を説明しているのが後半といえる。いわば立体的に見せているのが、「歎異抄」の一つの魅力だろう。
非力を顧みず、後半をコンパクトにまとめました。内容を説明しているというより、ラベルを説明しているみたいなものです。
詳しくは、専門家による解説書がたくさん世にあるので、そちらを見てください。
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第11条 「誓名別信(セイミョウベツシン)(別執(ベツシュウ))」
「(阿弥陀仏の願いを信じる)信心で救われる」と「(名号を口に称える)念仏で救われる」とは一体であり、二つに分けることはできない
第12条 「学解(ガクゲ)往生(学芸ぼこり)」
きちんと教義・教学を学ばねば往生できないと主張する者がいるらしいが、大きな誤りである。本願を信じて念仏すれば往生できるのだ
第13条 「専修賢善(センジュケンゼン)」「造悪無礒」(ゾウアクムゲ)」
「専修賢善」(ひたすら善をつまなければならない)を批判するのはよいが「造悪無礒」(悪事をしても何の障害にもならない)とも言えない
第14条 「念仏滅罪」
臨終の念仏で罪を消そうなどというのは、我々とは別の教えである。我々は信心が決定した際に往生させていただける身になるのだ。
第15条 「即身成仏」
現世で煩悩を絶って悟りを得るのではない。この世において阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往生してさとりを開くのである。
第16条 「回心滅罪(エシンメツザイ)」「随犯回心(ズイボンエシン)」
「罪を犯したときには、そのつど懺悔、回心しなければ往生できない」というのは誤りである。回心とは信心が定まったそのときただ一度のものである。
第17条 「辺地堕獄(ヘンジダゴク)」
(自分の行や善であるとしたり、念仏の善根功徳をあてにしたりする)自力の念仏では、真実の浄土に往生はできず、いったん浄土の隅っこに生まれることになる。
第18条 「施量別報(セリョウベッポウ)」
「お布施や寄進の多い少ないによって、大きな仏になったり、小さな仏になったりする、だからお布施を多くせよ」という教えはなく、あり得ないことだ。
関連番組:
4月18日(月) 22:25~22:50 放映予定 「100分de名著」「歎異抄」(第3回)
文献:
釈徹宗(2016/4)、『歎異抄』、100分でde名著、NHKテキスト、P.50 - 73
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