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2016年4月13日水曜日

(476) 権利と自由


 今世の中で使われている「権利」と「自由」という言葉に私は、違和感をもっています。「権利」「自由」は、とても大切だという意見が世の中の趨勢であり、これに逆らうと袋叩きにあいそうな気もします。

  それでも、おかしいと思います。今言われている「権利」と「自由」をとことん推し進めてできる社会は、決して住みやすい社会ではなく、そこに暮らす人は幸せになれないと思います。


  「権利」と「権利」は、ぶつかります。「Aさんの権利」と「Bさんの権利」のどちらが正しいか、誰がどのように決めるのでしょうか。皆が納得できるような答えはありません。結局、強いものが勝ちます。「権利」をとことん追い求めた結果は、「弱肉強食の世界」になると思います。

  「自由」は、相手からの束縛を拒否します。当然、相手も私からの束縛を拒否します。私の周りの人は皆「自由」なので、私のことはかまってくれません、「自由」をとことん追い求めた結果は、「孤立無援の世界」になると思います。

  今世の中で使われている「権利」と「自由」という言葉を使うなら、相手の「権利」「自由」を拒否してこそ、自分の「権利」「自由」を得られます。変です。そんなものは、目指すべき理想であるわけがないと思います。


日本語で使っている「権利」「自由」がおかしいのです。我々がちゃんと(本来尊重すべき)『権利』『自由』を理解していないのがいけないのです。

  その原因は、『ライト(ヒューマンライト)』に対して「権利」という言葉を当て、『フリ-ダム』『リバティ』に対して「自由」という言葉当てたのが、そもそもの間違いだったという説があります。私は納得しました。

  仏教用語である「権利」の元来の意味合いは、権力をもって利益を得るということです。日本語の「自由」という言葉の元の意味は、勝手気まま、わがまま勝手というニュアンスが強くなります。

 
 尊重すべきは『ライト(ヒューマンライト)』『フリ-ダム』『リバティ』であって、日本語の「権利」「自由」ではない。しかし今、日本でまかり通っているのは、日本語の「権利」「自由」である。だから、日本は変になりつつある、と私は思います。


  この説明では、言葉足らずのような気がします。

詳しくは、また、正確には、以下を参照してください。

藤澤和斉、「急いだ文化導入の弊害」、日本語のチカラ(2013/10/19

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