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2021年3月14日日曜日

(2272)  『100分de災害を考える』(3-2) / 100分de名著

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(K1413) (介護者のケア)自分の健康管理も忘れないで(1) <認知症>

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先々のことを考え、そこから逆算し、今なすべきことを設計するような生き方は、現代社会では「ビジョンをもって生きている」と評価されますが、むしろ「今」の意味を見失うことになっていくのではないでしょうか

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第3回  15日放送/ 17日再放送

  タイトル: セネカ『生の短さについて』--「時」とのつながり

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

【テキストの項目】

(1)   明日の「不確かさ」

(2)  「時」と「時間」の違い

(3)   自分の生を分け与える人びと

(4)  「不精な多忙」がもたらすもの

 

(5)  「君」とは誰のことか

(6)   長く生きるということ

(7)  「過去」とつながるために

(8)   日常に生きる哲学

(9)   セネカに学ぶ生き方

 

【展開】

(1)   明日の「不確かさ」

(2)  「時」と「時間」の違い

(3)   自分の生を分け与える人びと

(4)  「不精な多忙」がもたらすもの

 以上は、既に書きました。

 

(5)  「君」とは誰のことか

 この著作で頻出する「君」という言葉は、パウリーヌスという個人を指すというより、セネカの自分自身への呼び掛けであり、同時に読者である私たちへの問いかけでもあるのです。そのように読んでいくと、セネカの言葉はより深く響いてくるのではないでしょうか。

 今日という日が人生最後の日になり得ることを胸に刻み、生きなければならない。これは、孔子が残した「朝に道を聞かば、タベに死すとも可なり」(『論語』) という言葉にも通じます。

 先々のことを考え、そこから逆算し、今なすべきことを設計するような生き方は、現代社会では「ビジョンをもって生きている」と評価されますが、そうしたありようは、むしろ「今」の意味を見失うことになっていくのではないでしょうか。

 

(6)   長く生きるということ

 誰かが自髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。実際、どうであろう、港から出た途端に嵐に遭い、あちこち翻弄された挙句、吹きすさぶ風が四方八方から代わる代わる吹きつけて、円を描くように同じところをぐるぐる弄ばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。むろん、彼は長いあいだ航海したのではなく、長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。

 この世に長く「いた」人を軽んじてよいわけではありません。ここでの問題は、老いた人たちの尊厳ではありません。計測可能な「時間」と、日には見えない「時」の重みの違いです。

 

(7)  「過去」とつながるために

 セネカのいう過去は、単なる時間的な過去ではありません。それは、時間を超えた先人たちによる叡知の軌跡なのです。セネカはこうした「生ける過去」をもっとも確実に経験するのは、古典を「読む」ことだというのです。

 私たちには膨大な書物が用意されています。この本でセネカは、ソクラテスやカルネアデス、エピクロスらの名前を挙げ、書物をひらけば彼らと議論し、ともに考えることも許されていると言います。「読む」とはそれを書いた者との時空を超えた対話だというのです。

 人生は短いものです。しかし、書物を手にとることによって「過去」という名の悠久を自由に旅し、数多の賢者と語らうことができるのです。

 

(8)   日常に生きる哲学

 私たちがまず問い直すべきは、自分の日常が「不精な多忙」になってはいないか、大事なことを「先延ばし」にしてはいないか、という点です。

 どんな仕事であっても、私たちはそこから人生の意味、自然の摂理、物事の本質を考えることができます。重要なのは、仕事に忙殺され、自らの生と居場所を、そして、大切な人たちとの「つながり」を見失わないことなのです。

 毎日の仕事や何気ない暮らしのなかに、真の哲学を生きることができます。それは言葉によって語られる哲学ではなく、三木清の言葉を借りれば「語られざる哲学」かもしれません。

 おのれの哲学を生きよ。それが未来に生きる私たちに対するセネカからの呼びかけなのです。

 

(9)   セネカに学ぶ生き方

 誤解を恐れずにいえば、私たちもセネカのように、少し「悪あがき」をしてよいのだと思います。ここでいう「あがく」は、理想を手放さないということです。

 私たちは、日常に引っ張られ、現実的になりすぎているのではないでしょうか。理想を簡単に手放してしまうのではなく、理想が照らす道に、もういちど価値を置いてみる。

 前ぶれもなく生を奪う災害は、私たちに真剣に生きよと強く促します。東日本大震災やコロナ危機を経験した私たちに求められるのは、死を意識することではなく、真剣に生きることではないでしょうか。そのためにはセネカがそうしたように、いたずらに未来をつかみとろうとするのではなく、過去と今、そして叡知につながることが必要なのではないでしようか。

  

<出典>

若松英輔(2021/3)、『100de災害を考える』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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