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2021年3月6日土曜日

(2264)  『100分de災害を考える』(2-2) / 100分de名著

 

☆☆

今、私たちは生者だけで世界を作り上げる傾向を強めている。葬式は要らない、墓も要らない、仏壇も作らない。そのような人が増えている。いうなれば、私たちは生も死も「個」の経験として考えるようになったのです

☆☆

 

第2回  8日放送/ 10日再放送

  タイトル: 柳田国生『先祖の話』--「死者」とのつながり

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

 

【テキストの項目】

(1)   非常時に照らされた道

(2)   柳田国男の死者論

(3)  「常民」の死生観

(4)  「御先祖になる」と語る男

 

(5)   祭りと「じいさんばあさん」

(6)   死者を墓に閉じ込めてはいけない

(7)   ホトケと先祖

(8)   言葉にならないコトバを聞く

(9)   死者とともに歩む未来

 

【展開】

(1)   非常時に照らされた道

(2)   柳田国男の死者論

(3)  「常民」の死生観

(4)  「御先祖になる」と語る男

 以上は、既に書きました。

 

(5)   祭りと「じいさんばあさん」

 「先祖」が親しく感じられている頃、人びとは亡き者たちを「じいさんばあさん」と親しみを込めて呼んでいた、と柳田は書いています。この事実は、人びとが「じいさんばあさん」と日常的に内なる対話を行っていたことの証しでもあると思います。

 私たちは自分の力で生きているのではなく、生かされている。そのことを子どもたちの無意識に刻みつけるこの呼び方も、柳田のいう「先祖教」の名残の一つでしょう。

 ここで重要なのは、「じいさんばあさん」が畏れる対象でもなければ、遠くに仰ぎ見るような存在でもないことです。幼い頃から、身近で、温かく、大きな存在。そのようにして常民の常識は営々と受け継がれてきたのです。

 

(6)   死者を墓に閉じ込めてはいけない

 こうした世界観のもとでは、おのずと墓の意味も変わってきます。

 仏教やキリスト教は、墓は「死者の眠る場所」ととらえ、亡くなった人はそこに「永眠する」という言い方をします。しかし常民の常識は、大切な人を墓の下にひとり置き去りにしたりはしません。そもそも「日本人の墓所というものは、元は埋葬の地とは異なるのが普通」であり、墓は大切な人の「不在」を嘆き悲しむ場所ではなく、死者と生者がともに「斎う」場だと柳田はいいます。さらに、墓所は「屋外の祭場」でもあったというのです。

 人が死後に行く場所は、人影もまばらな墓所ではない、柳田はそう考えています。柳田の考える墓地は、死者の居場所ではなく、いわば生者と死者の待ち合わせ場所なのです。

 

(7)   ホトケと先祖

 常民の意識の底に潜んでいる、生き生きとした死者との交歓を語りえる言葉を、仏教は持っているだろうかと、柳田は問うのです。

 さらに柳田は「死んでも、死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことはいつの世の文化の所産であるかは知らず、限りなくなつかしいことである」とも述べています。

 そもそも「ホトケ」という言葉は仏教に由来するのではなく、もっと古くからある言葉ではないかというのです。

 

(8)   言葉にならないコトバを聞く

 民俗学者としての柳田の功績は、常民の生活と、そこに息づく常識を掘り起こし、光を当ててきたということに尽きます。

 はっきりと実感しているけれど、日には見えず、それを語る言葉を持たない。生者と死者のつながりは、まさにその典型ではないでしょうか。そうしたものの痕跡を、人びとの生活のなかに探し、自分の足で丹念に拾い集め、あえて言葉を与える。それが柳田民俗学の本質です。

 第1回でみた寺田寅彦は「自然のコトバ」を認識することを促していました。同じように柳田は「死者のコトバ」をどのように受け止めていくのかを問うのです。

 

(9)   死者とともに歩む未来

 一方で、常民の常識は「死者とのつながり」を照らし出し、生も死も「私」のものではなく、「私たち」のものとします。これは、数々の災害を経験した私たちにも求められている視点ではないでしょうか。

 大切な人を喪うことは、耐えがたく悲しい出来事です。しかし、私たちはその悲しみという経験の奥に死者との終わることのないつながりを見出すことができます。そして、柳田の言葉が真実であるなら、死者たちは誰よりも生者の幸福を強く願っているのです。

 私たちに必要なのは、死者との関係を確かめるための新しい言葉でも場所でもありません。むしろ、内なる世界で経験されていることを、ゆっくりと想い出す時間なのではないでしょうか。

 

 

<出典>

若松英輔(2021/3)、『100de災害を考える』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 

添付の写真は、1915年、大礼使事務官として大嘗祭に奉仕

https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2012-04-06



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