~ 『100分で名著』 2月20日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
(1)
非暴力の原理に伴う変容
===== 引用 はじめ ( P.72)
抵抗もせずに殴られ続ける民衆と向き合ううちに、殴る側の警官には恐れとともに痛みが生まれる、ともガンディーは言っています。それは「なぜ自分はこんなにずっと人を殴り続けているのか」という心の痛みであって、その痛みが殴られている側の物理的な痛みを上まわったときに、初めて本当の「非暴力」というものが生まれる。自分はそう信じていると言っているのです。
===== 引用 おわり
(2)
大衆が怒りを表出すれば、勝利が目前の試合に負ける
===== 引用 はじめ ( P.85 – P.86 )
「大衆が怒りを表出すれば、勝利が目前の試合に負ける」と言っています。また、「真に勇敢であるならば、そこには敵意、怒り、不信、死や肉体的苦痛への恐れは存在せず、このような本質的な特性を欠いている人々は、非暴力ではない」とも言っています。怒りに駆られて衝動的に行動することは、必ずその闘争にとってもマイナスになる。だからセルフコントロールが常に重要で、一番重要なのは自分の中の怒りや憎しみを超えていくことだというのです。
===== 引用 おわり
(3)
「自分」というものを突き刺さないかぎり、次には進めない
===== 引用 はじめ ( P.86 , P.88 )
怒りを直接的に表出するのではなく、断食や祈りを通じて、自分がもっている怒りというものの暴力性に、自ら刃を向けていく。そうして怒りをセルフコントロールできたときに、初めて祈りが生まれ、それが相手の内発的な力を呼び起こす。それこそが自分のアヒンサーであるとガンディーは考えていました。
敵だと思って闘っている相手のもつ構造や問題は、自分自身の中にもある。相手をただ非難するのではなくて、その「自分」というものを突き刺さない限り、次には進めない。外側の敵を打ち負かしたところで、自分の中に暴力がある限りは、何も解決できないということです。
===== 引用 おわり
(4)
赦しとは真に強い人間の属性である
===== 引用 はじめ ( P.89 )
「赦せない」という思いは欲望であり、怒りに絡め取られた人間の暴力である、とガンディーは考えた。その「赦せない」という欲望を乗り越えて、赦そうとする態度から新しい地平が開けてくると言いたいのだと思います。…
さらにガンディーは「赦しとは真に強い人間の属性である」とも言っています。弱い人間は「赦し」を受け入れることができず、憎悪を抱き続ける。しかし本当に心の強い人間は、赦すことによって憎悪の連鎖を断ち切ろうとする -。
===== 引用 おわり
(5)
受け身と否定形
より他者に、世界に開かれていくということ。そして、常に自分の欲望というものにメスを入れていくということ。「受け身と否定形」の論理構造には、ガンディーのそうした哲学が現れているのだろう。
===== 引用 はじめ ( P.93 )
「私」は常に受け身で、そこにいろんなものが影響してきて、それによって私は一歩ずつ前に進んでいく。そういう「受け身」こそが真に積極的な姿勢であり、他者に対して、そして世界に対して開かれた存在なのではないか。
この「受け身」とパラレルに位置するのが、「非暴力」「不服従」「食べない」などの「否定形」です。「~すべきだ」という主張は、「自分が絶対に正しい」という意識の上に立って他者をコントロールしようとするものであり、きわめて暴力的だとガンディーは考えたのではないでしょうか。
===== 引用 おわり
引用:
中島岳志(2017/2)、『獄中からの手紙』、100分de名著、NHKテキスト
写真:ガンディーとカーディー、チャルカーを回すガンディー
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