~ 『100分で名著』 2月6日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~
週一回で、4回にわたるシリーズ。今回はその第1回目。
第1回目 2月6日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ
「政治と宗教をつなぐもの」
主なキーワード:
「塩の行進」
第2回目 2月13日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ
「人間は欲望に打ち勝てるか」
主なキーワード:
「欲望の抑制」
第3回目 2月20日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ
「非暴力と赦(ユル)し」
主なキーワード:
「非暴力」
第4回目 2月27日(月) 22:25 – 22:50 Eテレ
「よいものはカタツムリのように進む」
主なキーワード:
「スワデージー」(自国産品愛用運動)
さて、今回の話。いくつかのポイントで整理した。
(1)
塩の行進 … 歩く
1930年3月12日、約380km先のダンディー海岸に向かって、塩の行進が始まった。
(2)
断食 … 食べない
ヒンドゥー教においても重要な修行である断食を、政治行為とつなげた。
(3)
真理は一つだが、そこに至る道は複数ある
歴史的に非常に分厚い伝統の中に身をおいていたガンディーの宗教観。
(4)
時間の効用
ガンディーの中に「時間の効用」という感覚がある。
(5)
個別の宗教は不完全である
すべての宗教は、有限で不完全な存在である人間の言葉によって紡がれている。
(6)
「リベラル」の意味
西洋の「リベラル」とは違い、東洋の「寛容」には真理の共有がある。
※ 各論
(1)
塩の行進 … 歩く ( P.10 , P.14
, P.18 )
1930年3月12日、約380km先のダンディー海岸に向かって、塩の行進が始まった。
サバルマティー川のほとりを出発したガンディーは、道中の村々の一つひとつに立ち寄り、人びとに向かって語りかけます。塩の専売制のおかしさ、イギリスによる支配のいびつさ…。文字の読み書きができないような貧しい人々にも、「塩」という身近な問題を通じた語りかけは、ストレートに響きました(
「塩の行進」
)。
出発したときには、わずか数十人だったガンディーの一行は、村々を抜けるたびに増え続け、最終的には数千人までふくれあがった。その数千人が、海岸でともに祈りを捧げ、海水から塩をつくる光景に圧倒されたイギリスは、ガンディーに対して歩み寄りを見せるようになった。
(2)
断食 … 食べない ( P.19 , P.22 – P.23 )
ヒンドゥー教においても重要な修行である断食を、政治行為とつなげた。
「歩く」と並ぶガンディーの政治行動に「食べない」ということがある。インドの独立を目指す過程で、彼は幾度となく断食をした。
布一枚のみすぼらしい格好のガンディーが食べ物を口にせず、どんどんやせ細っていく。そうして「飢えながら」祈る姿こそが、貧しくて着るものも、食べるものもない人々の心を打つ。鎧を身につけて武装するのではなく、そうしてすべてを放棄して祈り続けることが真の勇気であり、本当の意味での闘いだとガンディーは思っていた。
(3)
真理は一つだが、そこに至る道は複数ある (
P.25 – P.26 )
歴史的に非常に分厚い伝統の中に身をおいていたガンディーの宗教観。
人間にできるのは、真理を「究極にはつかみきれない、しかしたしかに唯一のもの」と想定し、かつそこに至る道について語ることだけだとガンディーは考えた。そして「真理は一つだが、そこに至る道は複数ある」という考えに至った。
これは、ガンディーオリジナルの考えではない。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」もこれと同じことを言っているし、仏教でいう「一即多、多即一」、ヒンドゥー教の「不二一元」とも重なる。こうした、非常に普遍的な東洋的認識論や存在論を、ガンディーは非常に分かりやすく、かつ「行為」という形で示した。
(4)
時間の効用 ( P.27 )
ガンディーの中に「時間の効用」という感覚がある。
ある一定の長い時間、風雪に耐え、多くの人たち
―
それも、学者や宗教家だけでなく無学の庶民も含めた
―
に共有されて、数多くのフィルターを通して伝えられてきたものの中には、集合的な経験値や英知が含み込まれている。そこには一定の真理が宿っているはずた。
ヒンドゥー教・キリスト教・イスラーム教は、「時間の効用」において、新興宗教と区別される。
(5)
個別の宗教は不完全である ( P.34 –
P.35 )
すべての宗教は、有限で不完全な存在である人間の言葉によって紡がれている。
「人間が考え出した宗教が、どれもみな不完全だとすれば、宗教の優劣を比較するといった問題は起こりえません。どの宗教もみな、真理の啓示によって成り立ってはいますが、同時にみな不完全であり、過ちを免れません」「一なる完全な宗教は、いっさいの言語を超えたものです」
ヒンドゥー教もイスラーム教も「人間が考え出した宗教」である。個別の宗教はみな真理の現れだけれど、真理そのものではない。真理というものは一つであって、それが「一なる完全な宗教」である。
(6)
「リベラル」の意味 ( P.36 – P.37
)
西洋の「リベラル」とは違い、東洋の「寛容」には真理の共有がある。
ウエストファリア条約において、他宗教に対する寛容としてのリベラルという概念が初めて生まれた。しかし、この「リベラル」は、「あなたと私は違います。その違いをそれぞれ認め合いましょう」という相対主義の立場で、「相手の中に自分と同じ部分があるとは認めない。カソリックとプロテスタント、あるいはイスラームといった違いを超えて、何か同じ真理を共有しているという発想はない。
一方、東洋では、宗教が違っても共有される一なる真理があって、それが多様な形をとって現われてくるという構造で「寛容」といいう問題を捉えてきた。ガンディーが言っているのは、まさにそういうことである。
因みに、日本の政治界で「リベラル」という言葉をよく聞くが、上の二つのいずれでもないようで、では何かというと私にはよくわからない。
引用:
中島岳志(2017/2)、『獄中からの手紙』、100分de名著、NHKテキスト
写真:しのぶ式典(産経新聞 2017/1/31)、塩の行進・歩くガンディー(テキスト)
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