(771) 「死に方」は選べないが「生き方」は選べる / がんになった“僧医”の遺言(2)
こころの時代
「 いのちの苦しみに向き合って
~ がんになった“僧医”の遺言 ~ 」
・ 2017/1/29 Eテレ 放映済み
・ 2月4日土曜 NHKEテレ1 午後1時00分~ 午後2時00分 再放送
を視聴して思ったことを書いている。
前回(770)、日本人に多い死を3種類に分けた
①
「心疾患」「脳血管疾患」「不慮の死」 … ピンピンコロリ
(注:一命をとりとめると、結果として「寝たきり」になることもある)
②
「悪性新生物(がん)」 … 比較的短期の「余命宣告」がある
(注:「余命」に関わらず、長生きする人もいる)
③
「肺炎」「老衰」 … 「健康寿命」後が長い
(注:「急性肺炎」や「ピンピンコロリに近い老衰」もある)
そして私は、「消去法でいくと、悪性新生物(がん)が一番良いことになる」と述べた。
それに対して、「父は怖がりでしたので前日まで会社に行き、朝起きてすぐに亡くなり良かったのかなと思いました」「私にどちらが良いと聞かれたら父の方を選びたいです」とFacebook上でコメントをいただいた。
私の意見を述べる。
(1)
「死に方」は、価値観上の問題であり、一般的な正解はない
(2)
「死に方」は、選べない(神様が決めることだ)
(3)
「自立可能」を境に、「生き方」は二段階に分かれる
(4)
一段階目の「生き方」では、「健康寿命を延ばす」という「正解」を選ぶことができる
(5)
二段階目の「生き方」では、「受け容れる」という「正解」を選ぶことができる
(6)
「二段階目の正解の生き方」をするために、今できることがある
私の意見を述べる。
(1)
「死に方」は、価値観上の問題であり、一般的な正解はない
三つの「死に方」のどれが好ましいかは、その人の価値観による。言えるのは「あなたはそう思うのですね」までで、良いとか悪いとかは言えない。一般的な正解はない。
(2)
「死に方」は、選べない(神様が決めることだ)
「脳卒中で死にたい」と脳卒中になりそうな生活をしたり、「がんで死にたい」とがんになりそうな生活をしたりすることは、どう考えてもおかしい。無事に脳卒中になれても(?)、救急車がとんできて病院に運ばれ、その後チューブに繋がれ長生きする人も多いらしい。そもそも「どう死ぬか」は、われわれの望みとは関係なく神様が決める。神様に委ねるべきだ(自殺や「自殺まがい」のことはいけない。前回の説明では述べていないが、第6位の死因は自殺である)と私は思う。
(3)
「自立可能」を境に、「生き方」は二段階に分かれる
自分のことを自分でできる間は、「生き方」を選ぶ自由度が多い。介護状態になると自由度が制限されるが、それでも「その人らしく」いきる自由度は残っている
(4)
一段階目の「生き方」では、「健康寿命を延ばす」という「正解」を選ぶことができる
自立可能な期間に「健康寿命を延ばす」努力をすることは正解だと思う。また、そのような努力は誰にでもできるだろう。
(5)
二段階目の「生き方」では、「受け容れる」という「正解」を選ぶことができる
余命宣言を受けるとか、介護状態になるとかは、嫌だと言っても選ぶことはできない。向こうからやってくる。しかし、余命宣告を受けてからどう生きるか、介護状態になってからどう生きるかは、自分の手の中にある。余命宣告、介護状態後の充実した生は、「それらを受け容れるという正解」から始まる。
(6)
「二段階目の正解の生き方」をするために、今できることがある
何事でも、うまく成しとげるには「助走距離」が必要である。「私はピンピンコロリと死にたい」と思うのは自由だが、現実は、そうならない可能性の方が高い。余命宣告を受けたり介護状態になってしまったりしたときにどうするか、今から考えておくことは有意義であり、必要なことでもあると思う。
私は、この(6)を念頭に、このシリーズを書いている。
「いかに生きるか」のために「いかに死ぬか」を考えている。
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