前回、「絶望的な境遇にあっても、心の支えがあれば、強く生きていくことができる。それは、希望をもつことによる」とした上で、信仰のない人においては「遠い未来に希望を置く」ことを提案した。
しかし、「遠い未来に希望を置く」ことができない場合もある。
===== 引用はじめ P.135
けれども、バラックの中で隣に寝ている人たち、しかも自分たちが死ななければならないこと、いつ死ぬかということ、死が近いことをかなり正確に知っていた人たちに対してどういえばよかったというのでしょうか。
===== 引用おわり
フランクルは、自答した。
===== 引用はじめ P.136
生きる意味、生き延びる意味に加えて、苦悩する、むだに苦悩する意味を、いいえ、それ以上に、死ぬ意味をも示されなければならなかったのです。
もちろん、死ぬ意味がありうるのは、前回お話したように、「死を自分のものにすること」が大切だというリルケの言葉にあるような意味でだけでしょう。
===== 引用おわり
===== 引用はじめ P.137
いずれにしましても、ひとりひとりが、とにかくどこかにだれかがいて、見えない仕方で自分を見ていて、ドストエフスキーがかつていった意味で「立派に苦悩に耐える」ことを求め、「死を自分のものにする」ことを期待しているとわかっていたのです。当時、だれもが、死が近くなると、そういう期待を感じたのです。
===== 引用おわり
フランクルは、「死ぬという課題に対して、責任がある」と言う。
===== 引用始め P.136
私たちは、この死ぬという課題に対して、生きるという課題に対してと同じように責任があるのです。その責任は誰に対する責任なのでしょうか。どういう審き手に対する責任なのでしょうか。 … たとえば、バラックの中で、ある人はこの責任を自分の良心に対して感じていたのかもしれません。べつの人は神に対して、またべつの人は離れたところにいるひとりの人間に対して、この責任を感じたかもしれません。このような相違は大した問題ではありません。
===== 引おわり
死を直前にして何者か(フランクルにおいては自分の良心も含む)が近くに現れ、それに対して死ぬという課題に責任をもつ。
フランクルの考えの説明はここまでとして、以下に、私の意見を述べる。
「とにかくどこかにだれかがいて、見えない仕方で自分を見ていて」ということが起こる。自分と関わる他者、それも、具体的な人ではなく、感覚の中でのみいる他者であり、かつ自分に関心を示している。
死を間近に控え、自分が縮小した隙間に何者かが現れ、自分に関わってくる。ここまでは、私も同じ考えである。
しかし、フランクルによれば、
「立派に苦悩に耐える」ことを求め、「死を自分のものにする」ことを期待していくる。
何を?というと、責任を果たすことを求め、期待してくる。ここが、フランクル的であって、日本人的ではない。ここは、フランクルにとって真髄の部分であって、ここ替えてしまうと、フランクルから離れてしまう。でも、やむをえない。
日本人にとって、他国の人がどうかはわからないが、日本人にとっては、自分を包み込み一体化する存在だと思う。責任は求めてこない。
それは、神や祖先かもしれないし、イデオロギーかもしれない。民族や歴史や自然かもしれない。ともかく永遠なるものであって、有限である自分を包み込み、自分と一体化する。ここで、自分は存在しなくなることは、ありえない。
私がそう思うだけであって、「日本人は」というのは、無謀かもしれない。
出典
V・E・フランクル、「それでも人生にイエスと言う」、春秋社
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