(542) 共食(きょうしょく)
ひと月以上前になるが、熊本の被災地からのニュース番組で、4人家族の暮らしを伝えていた。一戸建ての家は全壊したが幸い夫婦と子供2人は無事だった。避難生活は続くが小学校高年次の次男が学校に通い始めた。その授業でのこと。「生きるということは」という先生の出した課題に対し、彼は私にとって驚くべき答えを書いていた。
「家族が一緒に食事をすること」
はっとして、涙が出そうになった。 … (家族が一緒に食事をするのは)生きていると実感する時間だと彼は考えた。本当に苦しいときの家族の絆の大切さを再確認させられた。
… 100カ国以上でフィールドを重ね、つかんだ「人類とは何か」の答えである。
* 石毛直道(78):国立民族学博物館名誉教授。「食卓の文化誌」(文芸春秋)、「食事の文明論」(中央新書)などの著書で知られている。
「生きるということ」と「人類とは」は微妙に違うが、ともに人の本質を問うている。 … まだ幼い彼に人生や家庭の本質まで考えさせた大地震に、災害をもたらすいまいましい存在としてではない、別の意味での自然としての大きさを感じた。
===== 引用おわり
野瀬吉信、「人生に何一つ無駄なものはない」、飛ばないペンギンさん、産経新聞 2016/06/11
夕刊
感想1
高齢者の居場所として昼食を賄う場に同席させていただく経験を何度もさせてもらった。「食事を食べさせてくれるから来る」という人もいるだろうが、それ以上のものがあるのではないかと思っていた。
きょうよう(「教養」ではなく「今日用がある」)、きょういく(「教育」ではなく「今日行くところがある」)と最近よく聞く。きょうしょく(「教職」ではなく「共食」)も大切だと聞いたことがある。合点した。
失うものは強制的に奪われる。失われたからこそ何かを得ることもある。
年をとるということは、次々に何かを失うことである。にもかかわらず、失ったからこそ得られるものもあるのではないか。失ったものではなく、得たものに目が向くと、人生が違うものとして見えてくる。
感想3
自然を敵対する外部環境としてではなく、そこから大いなるものを感じ取る能力を、多くの日本人がもっているのではないか
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