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2016年6月9日木曜日

(534) 最期まで「自立」する


 63日の(528) で次のように書いた。
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 「シルバー期の発達課題」を私は、「ハンディキャップを得た人が、支援を得て、自立した生活を得る」としたい。

 人生の最後のステージで目指す姿を、このように表現したい。
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 「自立」を辞書(goo国語辞書)で調べると、その1として「他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること」とある。これが正しいとするなら「支援を得て、自立した生活を得る」ということは、論理的にありえない。


 例えば、義足ながらも仕事をして生計を立てている人は、自立していないのだろうか。そうだと言うなら、メガネをかけている人も自立していないことになる。義足もメガネも変わりない。モノの「助力」を得て生活したからといって「自立していない」と断定できないだろう。車椅子で活躍している人を「自立している」と言ってよいだろう。

 
 器具を使うなら自立と言ってもよいが、人に手伝ってもらったら自立と言ってはいけないのか。肩を貸してもらって歩けば自立ではなくなるのか。

 

 そもそも「他からの助力を受けずに」生きていける人なんて、一人もいないのではないか。また「他からの支配を受けずに」生きていける人も、一人もいないのではないか。辞書の記述が正しいとするなら、すべての人類が自立できない。

 たくさんの支配を受けながらも、たくさんの助力をいただいて、たくましく生きる。それが人生ではないか。

 

 介護保険を使い、子どもや近所の人やヘルパーさんなどに助けてもらいながら生きていて、それでも「自立している」と言われる生き方こそ、最後のステージの幸せな生き方だと思う。

 
 一つ例示する。「できないことは手伝ってもらう。できることは自分でする」。私はこれを「自立」と呼んでよいと思う。これは誰にでも、どんな状況でもできる。本人の意思で「自立」できる。体が全く動かなくなっても、ベッドで孫の幸せを心から祈ることはできる。

 
逆を考えると、分かりやすいのではないか。

この「自立」を失った人は、終わっている。退職し、体は元気なのに、一日中テレビを見ながらゴロゴロし、「メシ」「フロ」「ネル」とだけ言って奥さんに「介護」してもらっている人は、終わっている。この人が幸せになれるとは、思えない。「自立」を取り返せば、生き返る。

 

 日頃使っている「自立」とは一味違う「自立」が、高齢者が充実した人生を全うするために大切な概念だと思う。

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