「欲望の解放」と「欲望からの解放」 … 自由とは何か
ぼくも若い頃、自由というのは「欲望の解放」だと思っていました。田舎の窮屈さから解放されることは、戦後の日本人にとって必要なプロセスでもあったと思います。
たしかに欲望の解放は、自由の一つの側面です。近代ヨーロッパの自由思想家の代表格であるルソーも、喜びの享受は否定しません。
しかし彼は同時に、「それは許されることなのか」また「それはほんとうによいことなのか」と自分に問いかけながら、自分の欲望をコントロールしつつ生きることが必要であって、それができなければ人は自由にも幸福にもなれないと主張していたのです。
これは私たち日本人がイメージする「自由」とはずいぶん異なったものかもしれません。
===== 引用(段落は組み替えた) おわり P.108
「欲望の解放」と「欲望からの解放」は、反対のことをいっていて、それでも、両方必要だ。
戦中「欲望の解放」が著しく制限され、戦後「欲望の解放」が著しく進められた。それは良いことだったと思う。しかし、今、振り子は振れ過ぎていて、元に戻さねばならない段階ではないか。
「欲望の解放」の中には、自分や周囲の人や社会を害するものも含まれている。無条件に「欲望の解放」を認めてしまうと、結果として誰もが不幸になってしまう。
「元に戻す」と書いたが、戦前に戻るという意味ではない。戦前は、外から強制される「欲望の解放」の制限だった。これから必要なのは、自ら律する「欲望の解放」の制限である。
===== 引用 はじめ P.108
ぼくはいまでは、ルソーのいうことを正しいと思います。
自分の欲望を実現することがそのまま「よい」ことではない場合があるからです。
自分がしようとすることに対して、
<これは許されるか(他人を傷つけることにならないか)>。また
<これは自分を幸福にし、また他人をも幸せにするような、積極的な意義のあることだろうか>
とそのつど問いかけてみること。
これは生き方として必要な作法であると思えています。
===== 引用 おわり(段落は組み替えた)
自分や他人を不幸にする欲望を自ら排することを、私は「欲望からの解放」と表現した。ルソーは「きみ自身の支配者」「自分自身の主人」という表現を使っている。
これは放っておいたらできるものではなく、できるようになるよう子供が変わっていく、成長していく必要がある。ルソーの目指している教育はこのようなものであると、私は思う。
「頼らない自立」と「適切に頼れる自立」 … 自由と依存のバランス
===== 引用 はじめ
田舎や親族から自由になって生きてきたのだから、いまさらだれの世話にもなりたくないし、人に迷惑をかけたくないと、都会の団地やマンションなどで一人で暮らす高齢者が増えています。
しかしその結果、残念ながら孤独死を迎えることになる人もいます。
だれにも頼らないという“完全自立型”のイメージでなく、他人に適切に依存することによって(安全基地があることで)、むしろ人間は自由になりさまざまな創造性を発揮することができる(探索行動ができる)。
===== 引用 おわり(段落は組み替えた)
結果として自由と幸福を得るために、どのようにすればよいか。
欲望や自立をどのように考え、どのように生きていけばよいのか。
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坂口安吾『堕落論』 ~ただひとり、曠野を歩め~
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出典:
西研(2016/6)、ルソー『エミール』、NHKテキスト
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