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(K1469) 「認知症の語り」(002) <認知症>
http://kagayakiken.blogspot.com/2021/05/k1469-002.html
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私が蜂の目であることをやめて私の目に還ったように、生が私に迫ってくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまう。そのとき正に、私と生との間に金閣が現われるのだ、と。
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第2回 10日放送/ 12日再放送
タイトル: 引き裂かれた魂
放映は、 月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、 水曜日 午前 05:30~05:55
及び 午後 00:00~00:25
【テキストの項目】
(1) <心象の金閣>から<観念の金閣>へ
(2) 社会からの再びの疎外
(3) 戦後の擬人化としての老師
(4) 柏木との出会い
(5) ニヒルな柏木、ピュアな鶴川
(6) 南泉斬猫--認識か、行動か
(7) 人生を阻む金閣の幻影
(8) 三島の敗戦体験
(9) いつかお前をわがものに
(10)悪は可能か
【展開】
(1) <心象の金閣>から<観念の金閣>へ
(2) 社会からの再びの疎外
(3) 戦後の擬人化としての老師
(4) 柏木との出会い
(5) ニヒルな柏木、ピュアな鶴川
以上は、既に書きました。
(6) 南泉斬猫--認識か、行動か
ある時、柏木は「南泉斬猫」の独自解釈を披露します。いわく、解釈のポイントは猫で、あの猫は「美の塊まり」であるがゆえに、人を惑わす危険の象徴である。その無害化が、「行動」に
よって図られるべきか、「認識」によって図られるべきかが、この公案の主題である――。
猫を斬るという南泉和尚の行動は、一見すると美と決別できたように思われるが、根は絶たれていないかもしれないという不安が残る。一方、頭に履を載せた趙州は、痛みに耐える、つまり認識によってそれと折り合いをつける以外、解決策がないことを知っていたというのです。
(7) 人生を阻む金閣の幻影
女性という現実と関わる時に、破壊的な関係ではなく、融和的な関係を結ぶという選択肢も当然あるわけです。溝口は柏木の手引きで二度、女性との行為に及ぼうとするのですが、二度とも溝口の前に金閣の幻影が現れ、不首尾に終わってしまうのです。
女が金閣に変貌し、まさに金閣が立ちはだかる。幼い頃から彼をとらえて離さなかった絶対的な美が、彼が現実社会をいよいよ生きようとする時に、「お前はもともと内面の美の世界に閉じこもっていたじゃないか」と言うかのように、彼を現実から引きはがしてしまうのです。
(8) 三島の敗戦体験
僕(=解説者)は、ここにも三島自身の戦後体験が反映されていると考えます。実際、戦後社会に素早く順応していった人たちが数多くいた一方で、三島自身からは戦中的な価値観がなかなか抜けず、現実を生きようとしても、そこには、戦中の経験が立ちはだかってしまいました。
三島は『金閣寺』を書くまでに十年を要している。その間の三島は、ひたすら戦後の世界に適応しようとしては、戦中的なもの、天皇を中心とする絶対的なものが目の前に立ちはだかり、どうしても戦後の世界を生きられないという経験をしていたのではないでしょうか。
(9) いつかお前をわがものに
さて、二度目の女性とも不首尾に終わった溝回は、金閣に怒りをぶつけます。
“ほとんど呪誼に近い調子で、私は金閣にむかって、生れてはじめて次のように荒々しく呼びかけた。「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」”
溝回の金閣への思いが、ついに反転した場面です。それまでは完全に崇拝し、仰ぎ見るような存在だった金閣が、ここに来て、自身の行動によって関係を変えるべき対象となり始めたのです。
(10)悪は可能か
第2回は、敗戦によって〈心象の金閣〉が〈観念の金閣)にグレードアツプする中で、柏木によって認識で世界を変える可能性を教えられるも、溝口としては行為によって世界を変えることに踏み出していく、という道筋が見えてきたところまでを読んできました。
溝回の心に、繰り返してきたある問いが去来しました。
「それにしても、悪は可能であろうか?」
ここから金閣放火までは、もうそう遠くはありません。
<出典>
平野啓一郎(2021/5)、三島由紀夫『金閣寺』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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