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(K1201) 前近代人には、死は怖くなかったのか? <臨死期>
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モモの見た時間の源:そこにはさっきの花とはまったく違う美しさを持つ花が咲きました。また振子が戻ると花は枯れ、また別の場所に別の花が咲く。それが繰り返されるのが、時間の源でした。丸天井から注ぐ光の柱…
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第3回 17日放送/ 19日再放送
タイトル: 時間とは「いのち」である
【テキストの項目】
(1) 時間をつかさどるマイスター・ホラ
(2) 時間の源とは何か
(3) 時間のマンダラ
(4) 全体であり、個別である
(5) 死と再生、無と充溢
(6) 「星の時間」をつかむ
(7) 帰還とギャップ
(8) もう一度、時間の国へ
【展開】
(1) 時間をつかさどるマイスター・ホラ
灰色の男たちの追跡を逃れたモモは、時間の国にたどり着きました。そこで出会うのがマイスタ-・ホラです。
モモの質問に答える形で、ホラは灰色の男たちが何者かを話します。ホラによれば、灰色の男たちは実は人間がつくり出しているもの。人間の心の隙が生み出したものながら、いつのまにか人間を乗っ取ろうとするものなのです。
モモはホラに連れられて「時間のみなもと」を見に行くことになります。
(2) 時間の源とは何か
時間の源とは、人間の豊かざの源泉であると考えられます。源から来る時間は一瞬でありながら無限でもある。これは仏教、とくに華厳経の時間と字宙理解に近いかもしれません。華厳経は「仏の一毛孔(イチモウク)のなかには、一切世界がはいり」と説いていますが、時間についても「永遠の時間が一瞬におさまり、一瞬が永遠の時間を包む」としています。
その一方、灰色の男たちの時間は源から来ていません。彼らの生きる時間は、源から断たれ、十秒や一分というバラノラなものになってしまった切れ端です。彼らはそれを懸命に集めている。いってみれば、根のない葉っぱを集めるようなものです。
(3) 時間のマンダラ
物語では、モモが見た時間の源がどのようなものかが具体的に描かれます。エンデの描写は大変に美しく、読む者の感動を誘います。
金色のうすあかりが、モモをつつんでいました。だんだんと目がなれるにつれて、自分が大きなまるい丸天井の下に立っているのがわかってきました。 …
この星の振子はいまゆっくりと池のヘりに近づいてきました。するとそこのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくにつれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかりひらいた花が水のおもてにうかびました。
やがて振子はゆっくりと元に戻っていき、それに合わせて花はしおれ始めました。… 振子がくらい池のまんなかまできたときには、さっきのうつくしい花はすっかり散りつくしていました。ところがそのときには、池のむこうがわに、またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。
そこにはさっきの花とはまったく違う美しさを持つ花が咲きました。また振子が戻ると花は枯れ、また別の場所に別の花が咲く。それが繰り返されるのが、時間の源でした。丸天井から注ぐ光の柱からは、ずっと音楽が聞こえていました。
(4) 全体であり、個別である
時間の源に近いものとしては、物理学者ヴォルフガング・パウリが夢の中で見たとされる宇宙時計を挙げることができます(添付図)。
パウリの宇宙時計は、時間全体、あるいは宇宙全体を表すニュアンスが強く、従って規則性が目立つように思います。
一方、『モモ』の時間の源は、全体を表しながらも同時に個別性が際立っていて、アナログ的です。一つの花が咲いては消え、そのどれもが違ってそれぞれが最高に美しいとあるように、全体の中で個々の花に、確固とした存在感があるのです。
以後については、後に書きます。
(5) 死と再生、無と充溢
(6) 「星の時間」をつかむ
(7) 帰還とギャップ
(8) もう一度、時間の国へ
<出典>
河合俊雄(2020/8)、ミヒャエル・テンデ『モモ』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
添付、「ミヒャエルエンデのMOMO 時間の花っぽい」は、
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