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2017年7月25日火曜日

(944) 日本の儒教の完成(古学の2) / 仏教と儒教(13)


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 古学は儒教を徹底的に日本化する。徂徠は仁斎の影響を受けているが、その思想はさらに独創的である。丸山真男氏は、徂徠学は「政治」を発見したと解釈する。朱子学は人間を「理」という規格において理解するが、徂徠は人間の多様性とそれを寛容に受け入れる「理」という規格において理解するが、徂徠は人間の多様性とそれを寛容に受け入れる「道」の存在を説く。そこには人間をとらえる近代的な視点があった。

 
【構成】  第13章 日本の儒教の完成(古学の2)
 伊藤仁斎と荻生徂徠
 荻生徂徠の思想
 徂徠学の意味


【各論】

 伊藤仁斎と荻生徂徠

 伊藤仁斎の古学は『論語』『孟子』の解釈を中心に「古義学」を構成した。荻生徂徠はさらに『六経』にまで遡り「古文辞学」を構成した。詩文や文学の解釈にとどまらず、経学といわれる政治思想に画期的な視座を導入した。著書に、学問について論じた『学則』、道について論じた『弁道』、儒教の主要概念について定義をした古学の概説書『弁名』、『論語』の注釈書として独創的な『論語微』などがある。
 

 荻生徂徠の思想

【Ⅰ】存在論 - 仁斎の「生生観」と徂徠の「活物観」
 仁斎は、人間が「生生」のなかにあるがゆえに、「拡充」を人のあるべき活動とし、個々人の修養(拡充)を問題にした。徂徠は、人間が「活物」であることを宇宙の「生生」の事実として受け止め、多様な個々人はどのような社会組織(道)において存在し得るかを問題にした。

【Ⅱ】人間論・社会組織論 - 人は学問をしても「聖人」になれない
 朱子学は、個々人において「居敬」「窮理」を実践し「聖人」になることを要求する。しかし徂徠によれば、普通の人間は「聡明叡知の徳」がないため、「窮理」ができない。聖人は、持ち合わせている「聡明叡知の徳」をもって「天地」と「人物」に通暁し、ここから「道」を制作する。

【Ⅲ】実践論 - 人間の多様性と有限性
 「気質」は「変化」しない。米はいつまでたっても米であり、豆はいつまでたっても豆であり、米とか豆とかがたとえば修養することがあっても穀物における「聖人」のようなものになることはない。「聖人は学んで至るべからず」。
 一方「気質」は「成就」できる。「長短得失(長所と短所)」のある「気質」は、「道」すなわち「長養(やしないそだてること)の道」において世界の「用」にたつ。「気質」を養い「成就」するとは、「米は米にて(世界の)用に立ち、豆は豆にて(世界の)用に立つ」ということである。
 

 徂徠学の意味
 近世思想にあっ徂徠学はどのような意味を持っていたか。

   日本の近代化における前提条件
 日本儒教は朱子学から古学に展開したが、丸山真男は、朱子学の「自然的秩序の論理」が徂徠学の「作為の論理」へ転換したと解釈した。「作為の論理」とは、道(制度)は自然にあるものではなく、聖人の作為をまってはじめて成立するという考え方である。丸山氏は、この作為する聖人像に「主体的人格」を読み込み、「近代意識の成熟を準備する前提条件」を探ろうとした。

   徂徠学の疑似活物観
 徂徠が展開したのは、いわゆる活物観ではなく疑似活物観というべきものである。人は自然の有機的連関から疎外された状態にある。自然はそもそもそのままにほっておいても「活物」であるが、人が「活物」であるためには、「道」が存在しなくてはならない。「道」(制度)は、天地自然にあるのではなく、聖人が作為した人工物である。人は「道」という社会システムのなかで、自然と有機的に連関する。

   徂徠学の歴史意識と文明批判
 朱子学の天人合一観を徂徠は否定し、人と自然の関係は一体でないとした。自然は「神妙不測」なものであり、学問の対象にはなり得ない。人為の成果は、自然から分離して、変化する「制度」として理解される。学問の目的は、変化する「歴史」を研究することにある。この歴史意識は『徂徠先生答問書』『太平策』『政談』において、文明批判として表現された。

 

引用
高島元洋、「第13章 日本の儒教の完成(古学の2)」
竹村牧男・高島元洋編、仏教と儒教~日本人の心を形成してきたもの~、放送大学教材(2013)

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