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2017年7月20日木曜日

(940) 日本の儒教の完成(古学の1) / 仏教と儒教(12)


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 日本に移入された儒教は朱子学であるが、その思想構造をめぐって朱子学を批判する儒教が生まれる。日本独自の儒教である。
 伊藤仁斎の古学は徹底的に朱子学を否定する。仁斎の立場は、朱子学の教えは人間を理解せず、硬直した理により人間の感情を無視し、基本的に人間の日常生活とは無関係であると批判する。仁斎は、朱子を否定して孔子・孟子による本来の儒教が何を求めたかを考える。これが古学である。


【構成】  第12章 日本の儒教の完成(古学の1)
 朱子学と古学
 伊藤仁斎の思想
 「人倫」の倫理学
 「人倫」の自覚

 
【各論】

 朱子学と古学
 朱子学・陽明学の受容が一段落すると、日本独自の儒教が形成される。高度に独創的な理論体系は、伊藤仁斎の古学において出現する。


 伊藤仁斎の思想
 仁斎は「人の外に道無し、道の外に人無し」という。「人」は、「道」(人倫・人間関係)において「人」であり、ここを離れて「人」は存在しないということである。
 「道」とは人間関係そのもの(五倫=父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)であり、またこの人間関係に自覚された真理(五常=仁義礼智信)である。
 ようするに「道」(人倫・人間関係)が、「人」が「人」である場だということである。
 

 「人倫」の倫理学
 仁斎は、朱子学を批判した。

「理」:朱子学は、すべてのものに「理」(あるべき姿、規範)があるとし、これを基準としてあらゆる事象を判断する。これに対して、仁斎は、この立場は、「善を善とし悪を悪として」少しも許すことがなく、自分にも他者にも厳しく、要するに「残忍刻薄」(不寛容)であると批判する

「心」:朱子学は、すべての「理」を映し出す、完成した「心」の状態を、曇り(欲望)なき「明鏡止水」に喩える。しかし、仁斎は、「一毫人欲の私無き」(いっさい欲望や私欲がない)心の完成した状態は、「形骸を具へ人情有る者」(肉体を持ち感情を備えたもの)にはあり得ないと批判する。

「人倫」:仁斎は「人倫」を「藹然たる(穏やかな)至情」があふれる日常生活であると理解する。人間は「藹然たる(穏やかな)至情」を具えた存在であるのに、朱子学の立場は、この人間の自然な感情に反すると考えた

「情」「欲」:「情即ち是れ道(人情が真理である)、欲即ち是れ義(欲望が真理である)」といい、仁斎は、「情」も「欲」も、本来、制御・抑圧すべきものではないとして、肯定する。

 
 「人倫」の自覚

「人倫」は「学問」の中枢であり、二重の構造で説明される。
   仁斎は、「拡充」を意識的な行為であり、「学問」による「道」の自覚からはじまると考える
   仁斎は、「道」を、孔子によってはじめて明らかに自覚され、「教へ」として我々に示されたものと考える

 
引用
高島元洋、「第12章 日本の儒教の完成(古学の1)」
竹村牧男・高島元洋編、仏教と儒教~日本人の心を形成してきたもの~、放送大学教材(2013)

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