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2016年12月30日金曜日

(738) ボランティアの「純粋性」 / ボランティアに純粋性が必要か? (3)


前置きとして、ボランティアの「純粋性」について考えてみたいと思ったきっかけについて述べる。

27日午後530分集合で、神戸市青少年会館の年末大掃除に行った。
そこで二つのことを思った。

 
忙しい年末の夕方にもかかわらず、多くの団体から100人はゆうに超す人が集まっていた。掃除をする場所ごとに複数の団体が割り当てられた。その説明の中で「皆さん、譲り合ってください」という言葉が興味深かった。

「お菓子がこれだけある。譲りあって食べてください」ならわかる。そうか、掃除を譲り合わない人がいるということなのだ。ここでは、掃除は避けたい苦役ではなく、やりたいことなのだ。

 

もう一つ気にかかったのが、一緒に掃除をしている人たちに、たいしたことではないが声かけをすると、気のせいかもしれないが「透明な」声が返ってきたのである。ああ。こういう人たちとボランティア活動したいなと素直に感じた。

日頃、ボランティア活動をしていて声はよく聞いているのだが、一味違う「純粋」な声に感じた。違いは何なのか。

今回の掃除には、「生きがい」「楽しい」「有償」「自己顕示欲」「自己肯定欲求」「承認欲求」「仲間」「共にする喜び」「活動の場」と呼べるほどのものは、何もない(注:ジュースをワンパックいただいた)。義務として来ている人もいるが、多くは「純粋」に来ているのだろう。つまり「純粋性のあるボランティアの人」の密度の高い集団だったと思う。

 

「純粋性のないボランティアの人」は、「不純な部分」が無くなると去ってしまう可能性のある人たちだ(例えば、生きがいを感じなくなったり、仲間内で不愉快なことがおこったりすると、ボランティアを継続する意味がなくなる)。

「純粋性のあるボランティアの人」は、そもそも「不純な部分」は最初からないのだから、状況が変わっても、きっと踏みとどまってくれる人たちだ。だから、「こういう人たちとボランティア活動したいなと素直に感じた」のだろう。

 
「純粋性のないボランティアは危うい」

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